變電社:第0世代の「第一の青春」私論 序説 上

プロローグ「本来なら大人になってる」

昨年黒田博樹投手がメジャーの大型オファーを蹴って古巣広島カープと契約したというニュースを見て僕は驚いた。その氏の「その男気」ではなく氏が「1975年生まれ」で僕より3個年下であったという事実にである。野球選手特有のマガホニー色にテカるナマズにも似た氏の泰然とした顔をしみじみと眺めて「ああ僕も本来なら随分と大人になっているはずなんだな」と思った。黒田選手に限らずメジャーイチローも引退した松井秀喜も僕より数歳下である。同時代の偉大なるヒーローであり泰然とした「大人」達である。僕も1972年生まれの42歳。彼らのようなヒーローではあらずとも僕も「大人」にはなれているのか。どうなのか。

「年齢」というものは不思議なもので、成育・成長・成熟・老成、年齢均一には進まないのが「生きとし生けるもの」の自然であるから「年齢」意識なんてものは特段問題にならないだろう。そう思えながらも、ふと顔を上げて同「世代」を眺めれば、頭頂部の透け具合から、革靴のくたびれ具合まで、五十歩百歩の老成がある。そこで不意にカチンと現実の層につき当たり我に返るのだ。例えるなら、一人の帰還兵が、引き揚げ船デッキにスシ詰めに座る仲間の帰還兵達をぼんやり眺めているような、そんな気分である。

一般にこの「世代」とは「誕生した時期を共有する集団」であるから、それを僕の実感を情感込めて描けば、上に記したような光景になる。主義信条も階級すら関係なく帰還兵達が波に揺られて潮風に吹かれている。「共に生き延びている」という端的な事実のみを共有しながら。

「世代」の徴表

僕は今から「世代論」として、今まであまり明示的には語られてきていない、ある「群」を語る。この「群」が活動した一時代を日本文化・文学史上の重要エポックとして認め、さらにその「群」の持つ「特徴」を足場にして、マージナルな「外」史をも含んだ形で、大げさなことを言えば「近代」として、総合的にに包括的に捉え直したい。という個人的な実験である。そのための「世代」私論である。一般的な文学史研究における「作品」と「作者」と「読者」と「時代」という四項目のリレーショナルモデルだけではどうにも掬いとれていないもやもやしたものがある。その個人的整理のための「中間テーブル」を作成したいという思いもある。よって「群」のラベリングで様々な個を十把一絡げにすることの対する批判も承知の上で「世代論」をすすめる。

まず「世代」という概念にきっちりアンカーを降ろすために、オルテガ・イ・ガセットが1920年代に「現代の課題」において展開した以下の論にとっかかりをつける。

歴史に於てその功罪が決定するところの生命の感受性のもろもろの變型は世代の形式のもとにあらはれる。世代といふものは一摑の卓越した人間のことでもなければ、また單に大衆のことでもない。世代はそれ自體に纏まりを有する一つの新しい團體であつて、それはその團體に獨自の高貴な小數者と大衆とを、與へられた生命の速力と方向をもつて存在の圏内に投げ出された大衆を有しゐる。大衆と個人とのかういふ力動的な融合であるところの世代は歴史の最も重要な概念であり、謂はば歴史の樞軸である。世代とは人間的變種(ヴアライテイ)——自然科學者がこの用語に與へてゐるやうな嚴密な意味に於ての——である。世代の構成員は或る類型的な徴表を具へて生まれる。そしてこの徴表は彼等を互ひに近似させ、且つ先立つた世代から區別する。相似性の枠内で更に個人個人が相互に異なるといふことはあり得る。実際、極めて根本的に異つてゐて、そのために彼等は、事實同じ時に存在してゐる同時代人として相並んで生活してゐるに相違ないのに往々反對者と感じ合ふほどのことさへもあり得る。しかし味方と敵との激しい對立の背後に容易に態度の共通性が見出される。どちらも彼等の時代の人間であつて、如何に甚しく彼等が異なつていても、それ以上にもつと彼等は似てゐるのである

——オルテガ・イ・ガセット「現代の課題」1923年(池島重信訳 刀江出版1937)国陸国会図書館デジタルコレクション:国立国会図書館/図書館送信参加館内公開

昨今でも流行語的に扱われる電通博報堂式マーケティング「世代論」を避けるつもりが、このオルテガの定義で則る限り「彼等を互ひに近似させ、且つ先立つた世代から區別する」徴表=メルクマールである以上、その徴表を語るには、何かしらのラベリングしかあるまい。

この「群」は、僕が變電社ブログにて、野川の足跡を追うことで徐々にあぶり出されてきたある人々の「群れ」である。僕は過去その「群れ」を「20世紀跨ぎ生まれ世代」とラベリングした。なぜ「20世紀跨ぎ」だったかと言うと、僕が今回想定した「世代」のレンジが、1895(明治28)年〜1906(明治36)年生まれだからである。20世紀の幕開けたる1901年を境にして前後6年の12年間(干支一周分)に生まれた日本人と設定し、"20th century BOYZ"なんて巫山戯た表現でも呼んでみたが、今回は改めて「第0世代」と名付けた。「彼等を互ひに近似させ、且つ先立つた世代から區別する徴表」を持った世代として。

何故「0」世代なのか。2「0」世紀の「0」でありミレニアム世代だということ。この「世代」の後半は前世紀の「0」年代にあたること。そして、この「世代」は、戦後「世代論」ブームのそもそもの「点火プラグ」でもあり「爆心地」=グラウンド「0」でもあったからである。その全ての「世代論」の契機=「0」として「第0世代」と名付けた。(もういくつかの「0」を込めているがそれは後章で触れる)。

「世代」と「世代論」史

「世代」という「述語の利用史」を整理する。述語自体に関して言えば、先に引用したオルテガが、社会学的定義付けを行つたのは1920年代であり、1930年代に翻訳紹介されているように戦前から日本でも流通していた言葉である(30年代に三木清『歴史哲学』にて「文学の世代論」を展開している)。またヨーロッパで見れば19世紀にディルタイがゲーテ・カント・フィヒテに続く「新世代」としてノヴァーリスの「ドイツ・ロマン主義」を扱い、18世紀にはルソーが「人間不平等論」の中でも「世代」という言葉を多用するように、社会学、文学、哲学、歴史学、生物学など、様々な学術領域で古くから使われる言葉だ。

しかし日本で一般的に、また戦後僕等が気儘にそれこそ10年単位5年単位でラベリングするような形で定着したのはいつの頃からなのか。

最新の「世代論」を叙した長山靖生「『世代』の正体」(2014年12月河出書房新社)は「世代論史」を俯瞰して整理するのにうってつけであるが、本書によれば、1967年の岡和田常忠「青年論と世代論」(『思想』1967年4月)において展開した明治二十年代「壮士」から「靑年」へ変遷地点を日本における前章とし、「明治の父」に対する大正期の「金持ちの若旦那」たる、徳富蘇峰「大正靑年」論を「今どきの若者」論として「世代論」の嚆矢としている(参考:徳富猪一郎『大正の青年と帝国の前途』大正5(1916)年)。

その後に続くものとして、現在でも世に出回りWikipediaにも記載ある「世代」のラベリングを並べるとこうである。

世代」Wikipediaより

前半だけテキストに起こすと
大正世代(1912〜26年生まれ)
昭和一桁世代
(1926〜34年生まれ)
焼け跡世代(1935〜46年生まれ)
団塊の世代(1947〜49年生まれ)

大正年間に生まれたる「大正世代(1912年〜)」と呼ばれる群の前に、長山の書でいう「世代」認識の発端としての「明治の子」から大正期に青年期に入る「大正青年(1885年〜)」と呼ばれる群が入る形になるのだが、僕はそのちょうど中間領域にあたる部分を「爆心地=0世代」として捉えている。そこに長山も何かありそうなことを嗅ぎつけていながら明確に名指していない。

モボ・モガ(モダンボーイ・モダンガール)と呼ばれる洋装男女が銀座の町を闊歩するようになったのが元号が大正から昭和に変わる頃だった。「大正青年」よりやや下の、明治末期生まれの青年たちだった。彼らの身ごなしにも、現実から遊離した束の間の自由ならではの哀しさが漂っている。
だいたいモボ、モガなる若者は、三代続いた江戸っ子といった者は少なく、ひとり暮らしをしている地方出身者のほうが多かった。彼らは田舎の家から学費、生活費を送ってもらい、ひとりで気儘に暮らしをしていた。だから彼らのモダンライフは時間限定であり、田舎から親が出てくるとあわてて取り繕い「模範青年」を演じてみせたりもした——そういう滑稽譚が「新成年」「キング」といった当時の雑誌にはよく出てくる。

——長山靖生「『世代』の正体」河出書房新社2014年12月

まさにこの「世代」であるのだが、どうも長山は「過去の命名された世代論」の整理を目的としてるために「『大正青年』よりやや下の、明治末期生まれの青年たち」という表現でしか明示できていない。確かに僕も様々な世代論に目を通してみたところ、過去にその「群」に対して「世代」という形ではきっちりとした輪郭を与えられていない。もちろん様々な論者がそこに特徴的な「徴表」を持った「群」がいることを勘づいてはいるのだが、そこはやはり強引な形で「戦前派=アバンゲール」という大枠で括られるものが主流である。もっとも極めて具体的に形で「世代」指名をした事例もある。そこは後段で説明するが、やはりそこでも明らかな「名」はない。

「第0世代」というレーベル

何故そこに「世代」名がないのかと言えば、そもそも戦前期においてその同時代人の間でも「世代」認識は薄いというものがある。様々な理由が考えられるが、例えば戦前文化史を振り返る際に「世代」よりも「エコール=流派」の認識の方が明らかに前面に出る。「自然主義」「アナ」「ボル」「プロレタリア文學」「新感覚派」「日本浪曼派」などなど。

しかし様々なエコールの主義信条を超えて「出生時期」で並べてみても「彼等を互ひに近似させ、且つ先立つた世代から區別する徴表」というものが明らかに認められる、というのが今回の僕の立場である。それは例えるなら発売年代と「レーベル」を頼りに中古レコードを発掘する作業に近い。その「徴表」で歴史を整理をした際に、今まで主人公の影に隠れて不遇にも取りこぼされていた同時代の名脇役やエキストラを攫えるのではないのか。またその意想外な関係性の座標が透けるのではないのか、と。

野川隆の「1901年生まれ」をその青年期まで追うとこうである。

1905年、幼少期4歳で日露戦先勝
1910年、9歳で大逆事件および韓国併呑
1912年、11歳で明治の大帝が崩御し「大正」へ
1914年、13歳で欧州で未曾有の世界大戦(第一次)
1917年、16歳でボリシェビキが武装蜂起
1918年、17歳で米騒動、シベリア出兵
1920年、19歳で日本最初のメーデー、日本社会主義同盟結成、
1921年、20歳の時に原敬が東京駅で刺殺され、
1922年、21歳の年にプロレタリアート独裁国家「ソビエト連邦」成立、
1923年、22歳で関東大震災で帝都が灰燼と化し
1925年、24歳で治安維持法と普通選挙法の公布
1927年 26歳で大正天皇崩御し若き天皇の「昭和」へ

「世界史」的事件の連鎖と社会不安とさらに「震災」の追い打ちで激しく時代が波打っている。

また文化面で言えば、

1914年、13歳で辰野金吾「東京駅」落成「宝塚少女歌劇」初演
1916年、15歳で「婦人公論」創刊、浅草オペラ「世界的バラエチー一座」旗揚げ
1917年、16歳で「主婦の友」創刊、鈴木商店後の「味の素」設立
1919年、18歳で「カルピス」発売開始、「キネマ旬報」創刊
1920年、19歳で「新青年」創刊、活動写真会社「松竹」、「帝国キネマ」設立
1921年、20歳で表現主義映画『カリガリ博士』封切
1922年、21歳で「週刊朝日」「サンデー毎日」「小学五年生・六年生」(小学館)創刊、「江崎グリコ」設立
1923年、22歳で「文藝春秋」創刊、ライト「帝国ホテル」落成、「丸ビル」が完成、「マキノ映画製作所」創立、サントリー前身「壽屋ウイスキー工場」設立、「アサヒグラフ」創刊
1924年、23歳で「築地小劇場」創設、現在の甲子園球場=「阪神電車甲子園大運動場」完成
1925年、24歳で講談社「キング」創刊、「JOAK」ラジオ放送開始
1926年、25歳で改造社「現代日本文学全集」刊行「円本」ブーム、NHK=「日本放送協会」設立、「アサヒカメラ」創刊、新宿「高野フルーツパーラー」営業開始、TOYOTA=「豊田自動織機製作所」設立

彼等が育った明治後期から大正年間にかけて僕等の現代生活に驚くほど直結してくる都市文化の基部が出揃っている。つまり近現代史が教えるところの「大衆社会」が出現したわけである。「第0世代」の成長と併走しながら。


最初の「マス」としての世代

われわれは見るもの、見ることによってわれわれを驚嘆させるものはなんであろうか。文明のつくりだした用具や施設を占拠する群集が、群集としてじっさいに見えるのである。ちょっと反省してみると、われわれは驚いたことに逆に驚く。それがどうしたというのだ。これは理想的なことではないか。劇場に座席があるのは人が座るためで、つまり劇場がいっぱいになるためだ。汽車や座席やホテルの部屋についても同樣である。

——ホセ・オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』1929年(寺田和夫訳 中公クラシックス新書 2002年2月)

この大衆社会論であまりにも有名なこの書が出たのが1929年であることを考えると、「第0世代」はオルテガを参考して20年代の社会状況を振り返ることは出来なかったわけである。が、オルテガに「見られていた世代」なわけである。ここで言う「群集」がヨーロッパ状況のみであったかというとそんなことはない。ニッポンの「群集」の具体的サンプルとして人口統計から見てみる。

 国立社会保障・人工問題研究所データ※赤青枠赤セル著者追記

国立社会保障・人工問題研究所「表1-2 日本人人口,人口増加,性比および人口密度:1872~1920」からのデータである。赤セルは僕が上位数値25までを設定したものだが、人口が1890年代4000万人を超えると、「第0世代」(1895年〜1906年)にて人口増加率が安定的に1%代を超え始めたタイミングにあたる。ここに前代から比較した意味で日本は、敢えて言えば空前のベビーブームがあったことは間違いない(絶後ではない)。さらに長期スパンでグラフで俯瞰して眺めてみると

第一生命経済研レポート 2005.6 ※赤丸著者追記

この赤丸の部分を見れば人口増加の「とば口」たる「最初の世代」であり、下の棒グラフでも人口増加率も「ひとかたまりの山」があることがわかる。(なお、21世紀の現代ニッポンがちょうどこの世代と鏡合わせのように、人口増減率マイナス0.17(平成25年)の人口減少の「とば口」たる「最初の世代」にあたる)。

そしてこのベビーブームの子供達が「帝都」東京に向かう。1904(明治37)年からの東京エリア人口と全国人口の推移の比較表を見てみよう。

東京都地域の人口と全国人口の推移(都・総理府史料)色枠著者

地方の平均的1%台の増加と比較して東京が人口増加率が3%台と高いが、さらにオレンジ枠内の1917(大正6)年を境に急角度で上昇していることがわかる。第一次世界大戦によるの所謂「大戦景気」による「工業生産が急激に増大し、重化学工業化の進展がみられ、日本の都市社会にも大きな変貌をもたらした」タイミングである。

工場労働者は第一次世界大戦開始の1914年には85万人であったが、5年後の1919年には147万人と2倍近い増加を示し、とくに重化学工業の発展の結果、男子労働者が急造した。商業・サービス業の発達もめざましく、都市への人口集中が目立った。
梅村又次の推計によれば、1913年から1920年までの7年間で農林業人口は約70万人減少して1,416万人になり、非農林業人口は約250万人増加して1,304万人に達した。
その結果、京浜工業地帯、中京工業地帯、阪神工業地帯、北九州工業地帯が鉄鋼、化学、機械などの分野を中心に形成されていった。

——Wikipedia「大戦景気

先のオルテガ『大衆の反逆』を今一度引用すると、

この様相を分析するのは容易ではないが、記述するのはきわめて簡単である。わたしはこの様相を蝟集(いしゅう)の事実、「充満」の事実と呼んでいる。都市は人で満ち、家々は借家人で満ちている。ホテルは泊り客で、汽車は旅行者で、喫茶店はお客で、道路は歩行者で満ちている。有名な医者の待合室には患者があふれ、映画、演劇には、出し物がそれほど時代おくれてないかぎり、観客がむらがり、海浜は海水浴客であふれている。以前には問題にならなかったことが、つまり、空いた場所をみつけるということが、いまや日常の問題となり始めている。

——ホセ・オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』1929年(神吉敬三訳 角川文庫 1967年9月)

その「充満」した人口を発達した都市の交通網も捌ききれなくなる。「通勤ラッシュ」を体験したのもこの世代が最初である。

添田唖蝉坊の子息添田知道がさつき生の名で『東京節』を作詞、アメリカ南北戦争のときの軍歌「ジョージア・マーチ」の曲をつけて発表したのが1919年、第一次大戦の末期、急速な経済成長とそのひずみによる米騒動とが戦後における日本社会の進路の困難を暗示していたときであった。その一節に「東京の名物満員電車 いつまで待っても乗れやしねえ 乗るにや喧嘩いのちがけ...」という句があった。「ラメチャンタラギッチョンチョンでパイノパイノパイ」という各節末尾のリフレーションがつくこの歌は、1930年代まで紙芝居のおじさんの大太鼓のリズムとともに子どもたちに歌い継がれた。前にも述べたが、このように歌いこまれたころが、東京の路面電車の輸送体制がピークに達したときであった。

――「通勤・通学の歴史的文化的考察」『国際交通学会誌』2000年3月

1919(大正8)年「第0世代」が旧制高校もしくは旧制大学にさしかかる時期であり、また「學生」だけではない。地方の若者達が「工員」「タイピスト」「カフェの女給」と様々な「都市労働者」として「上京」する。その「上京者」たちで1920(大正9)年の東京人口の半分の人口が占められる事態になる。

出生地域別の人口(大正9年国勢調査)


この半分が流入者という「東京」という都市の神田に生まれた生粋の「東京」人たる小林秀雄も1902年4月生まれた僕の言うところの代表的な「第0世代」である。彼が31歳の時に「東京に生まれながら東京で生まれたというどうしても合点出来ない」と言い

自分の生活を省みて、そこに何かしらの具体性というものが大変欠如している事に気づく。しっかりと足に地をつけた人間、社会人の面貌を見つける事が容易ではない。一口に言えば東京に生まれ東京人というものを見つけるよりも、実際どこで生まれたのでもない都会人という抽象人の顔の方が見つけやすい。

——小林秀雄「故郷を失った文学」『文藝春秋』1933年5月

この「上京者」であり「単身者」であり「學生」であり「会社員」であり「勞働者」であり「カフェの女給」であり「詩人」であり「テロリスト」であるところの「都会人という抽象人」の一塊が都市の大衆社会状況を形成したわけである。

そう考えると小林のあまりにも有名で引用も憚れるあの台詞も「響き」が随分と違うように聞こえてくる。

人は様々な可能性を抱いてこの世に生まれて来る。彼は科學者にもなれたであろう軍人にもなれたろう、小説家にもなれたろう、しかし彼は彼以外のものにはなれなかった。これは驚くべき事実である。この事実を換言すれば、人は種々な真実を発見できるが、発見した真実をすべて所有することは出来ない。或る人の大脳皮質には種々の真実が観念として生息するであろうが、彼の全身を血球として循る真実は唯一つあるのみだという事である。雲が雨を作り雨が雲を作るように、環境は人を作り人は環境を作る、かく言わば弁証法的に統一された事実に、世のいわゆる宿命の真の意味があるとすれば、血球と供に循る一真実とはその人の宿命の異名である。

——小林秀雄「様々なる意匠」『改造』1929年9月


この「小林秀雄」=日本の近代批評の「産声」の後ろから「街路の雑沓」が聞こえてこないか。なおオルテガ『大衆の反逆』も同年1929年に世に出たものである。

「世代」としての捉えがたさ

一般に日本近現代史でも大正中期〜昭和前期に「大衆社会」状況の成立を見ており、その成立の根幹が彼ら最初の「ベビーブーマー」である。つまり「大衆社会」の当事者であり体験者であり、その「彼等を互ひに近似させ、且つ先立つた世代から區別する徴表」を持っているもなにも、おそらく「彼らを近似させ」られた体験の最も初めであり、「先立つた世代から區別」させられた最初の世代ではないのか。

ただ先にも触れたように、これらを担った群集体験を切り取って「世代」というフレームで一般に見ない。何故「世代」として捉えがたいのか。様々な理由が考えられようが、ここも多くの論者が指摘する「元号」という制度が近現代史への「乱視」を発生させているという説を僕も採用する。

わが国では、同時代史研究上の画期をなす一九二〇年代の大衆社会の研究は、戦前はもとより今日においてもかならずしも十分とはいえない。
 私はその主な原因はわが国の同時代史研究が一九二〇年代という時期区分を設定せず、元号制に基礎をおく大正という言葉を密輸入して、<大正デモクラシー期>という曖昧な時期区分を設定していたところにあると考えている。

——竹村民郎「大正文化 帝国のユートピア―世界史の転換期と大衆消費社会の形成」増補版2010年8月

長山も「日本でが元号と西暦が混在している。制度として並立しているだけでなく、個人個人の生活意識も、この年代把握法によって分裂しているようなところがある」という指摘しているが、「一世一元の制」を採用したのは1868年の明治改元からであり、「元号」と「時代」の一致は「帝政」から始まるものである。たかだか150年の歴史しかない。江戸時代その264年間のうち元号は35回変わっている。にもかかわらず「明治の精神」や「大正デモクラシー」といった表現があるように、やもすれば「元号」に「時代精神」といったものを仮託させる。この「元号」バイアスがかかることで「誕生した時期を共有する集団」という極めてシンプルな事実の共通認識を抑圧するのではないのか。

私見では、明治末期までは〈明治〉という捉え方が、当時を生きた人々の意識からして適切であるように思う。明治三四(一九〇一年)には「二十世紀」ということもしきりにいわれたが、民衆意識は、明治という枠組みが強固だった観がある。明治人にとって、元号による時代把握が日常的なものであり、自然だったのに対して、西暦による二十世紀の到来は「イベント」だった。

——長山靖生「『世代』の正体」河出書房新社 2014年12月

このように「明治の父」「大正青年」「大正世代」などの様々なラベリングが過去生まれていながら、「世紀」を跨いでいる「世代」認識が弱い。

この「世紀を跨いでいる」という認識の一つ重要なポイントは、その「元号」を担う「天皇」こそ「世紀」跨いでいるのだという事実である。20世紀開幕の年の「イベント」たる「1901年」は元号にすると「明治34年」であり、この年は迪宮裕仁後の「昭和天皇」生誕の年である。昭和元年は1926年12月25日から僅か6日であるが、裕仁青年26歳の年に「昭和」が幕をあけた。よって昭和天皇はけして「昭和世代」ではない。彼はその「『大正青年』の少し下」の世代であり、彼は明治期に生まれ育ち、大正期に青年期を通過された。つまり昭和天皇は僕の言うところの「第0世代」の中心に佇んでいる。「第0世代」の「都市群集」として「明治」「大正」を通じて人格形成され「昭和」を担った

この「昭和天皇」をも含める「世代論」というある種の野蛮さに驚かれるかもしれない。が、「世代」で眺めてみた時に、彼も「彼等を互ひに近似させ、且つ先立つた世代から區別する徴表」を持っていたことがわかる。一つの事例として、昭和天皇は「後宮」「大奥」解体の宮中改革を断行した際、昭和天皇は、戦後で言うところの「核家族」に通じる都市生活者としての「簡易生活」を目指したと言われている。また昭和天皇が無類の「新聞好き」であり、毎日20以上の新聞を閲覧していたという事実に対する福田一也「昭和天皇」での以下の指摘は重要である。

 そして彼の人もまた、「都市生活者」の一人なのだった。 
 洋行し、個人主義的な ─ ─ その裏には日本の皇室が体験したことがないほどの激しい軍務への献身があったのだが ─ ─ イギリスをはじめとするヨーロッパ王室の暮しぶりに触れた彼の人の生活感覚は、関東大震災後に拓かれていった小田急や東急といった私鉄沿線に住み、丸の内のオフィスに通うサラリーマンの意識と近似していた。後宮を廃し家族水入らずの生活を切実に求めた彼の人の意識の一面は、舅と姑を逃れて文化住宅で生活する給与生活者とさほど距離がなかった。
——福田一也『昭和天皇〈第3部〉金融恐慌と血盟団事件』文藝春秋 2009年8月

この「第0世代=昭和天皇同世代」で考えると面白いことがわかる。「敗戦」という未曾有の体験でもって世代論は「元号」バイアスから解放されているからである。無論、昭和天皇が1989年まで長期在位期間であったいうのもあるが、「人間宣言」が「帝政」バイアスを破棄し、改めて「世代」自覚を促した「分光器」として働いたと考えてもいい。その分散したスペクトルの一つが確かに「第0世代」を射貫いたのである。何故ならそこで初めて「世代」という括りて明瞭にこの「群」が認識されたからだ。またそこに「昭和天皇」を同世代として含んでいるのことも如実に解る。すなわち「戦争責任論」でフォーカスされるのである。


變電社:第0世代の『第一の青春』私論序説 下」へつづく 


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持田 泰

noteでトルタル(暫定版)

電子雑誌トルタルに関係したnoteをまとめていってみます。どうなるかな
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