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2023年に置いて行きたい1/4:身内を貶める文化

 はじめましての人も、
 前から知ってる方も、
 ごきげんよう。

 偏光です。

 それは良い悪いを抜きにして、
 文化ではある。

(文字数:約2500文字)



まずは文化に対する基本理念

  何処の如何なる文化であっても、
  良い悪いを問わず、
  等価である、

  と常日頃から私は考えている。

  私個人の好みや価値観に合わないとしても、
  容易には侮れないし、
  侮りたくはない。

  そこを踏まえた上でだ。


2023年12月初旬の叔父さんとの電話

  私には、
  若くして故郷の九州を離れた叔父さん、
  より正確に言うと父の弟がいて、

  お歳暮として毎年リンゴをひと箱、
  大阪の私の家にまで送ってくれる。
  有難い有難い。

  しかしながらお仕事が忙しい様子で、
  お礼の電話をしても出てもらえる事は無く、
  留守録にメッセージを残すのが常であった。

  「今年は引退して家にいるみたいよ」
  「お父さんがメールでやり取りしてるから、
   電話してみたら」
  と母から連絡があったので、
  掛けてみたところ久しぶりに応答があった。

  そこからしばらく話していたのだが、

  私は地声が低い、というより、
  他所行きの声、
  というものをほとんど作らないので、

  電話越しに聞いた側からは、
  女性の声だと気付かれにくい傾向がある。

  「いやぁ。ご存じかどうか、
   関西には親族がいましてね」
  うん。もちろん知ってるけど?

  「お見舞いがてらそちらにも、
   足を運ぼうと思っていたんですよ」
  あれ? 随分と他人行儀な気がするが?

  と話しながら不思議に思っていたんだが。

  「どうですか。そちらは。
   ゆきこのオツムは大丈夫ですか?」

  (#・∀・)ほお。

  ……えええと。
  コイツは一体どこから話をほぐしたものかな。

  まず私はゆきこ本人であって、
  叔父さんはおそらく電話の相手が、
  私の配偶者(・ω・)だと思っていて、
  私本人に言っているとは気付いていないのだろうが
  (あるいは気付いていてのわざとなのか?)
  (長らく直接のお礼が無くて実は怒っている?)
  (みたいな勘繰りまでしてしまうじゃないか)、

  ずっと九州から離れていない私の父親と、
  普段どんなやり取りをしてきたかはともかく
  (事実私は心療内科に通っていたし、
   「あいつはオツムがダメじゃ」みたいな言い方を、
   叔父さんに聞かせてきた可能性は充分有り得る)、

  関西に生まれ育った配偶者が聞いたら、
  そう気分の良い表現じゃないのよ。

  「あはははは(#・∀・)
   一時期は大変でしたけど、
   最近は落ち着いてきましたよぉ」
  とどうとでも取れる回答でお茶を濁したけども。

  「グリングリン高速回転してまっせ、
   とでも言うてやればよかったのに(・ω・)」
  とは後に一連の流れを聞かせた配偶者の弁。


分を弁えるという事

  しかしながら40数年も生きてきた私は、
  好みではないとは言え把握している。

  故郷には身内を貶める文化が存在する。

  なぜならば、

  過去の数百年に渡り我が故郷では、
  他所の家の者から目を付けられたなら、
  どのような目に遭わされてしまうか、
  分かったものじゃなかったから。

  集落で最も美しい娘に、
  集落で最も秀でた息子は、
  村長あるいは地域権力者の、
  子息子女でなければならない


  という鉄の掟が存在したからだ。

  どうにも隠れようがないほど、
  容姿才覚に優れた子供に恵まれたとしても、
  他所から誉められ、また、
  自分たちも誇りに思って許されるのは、
  常日頃から親の庇護下に置く事が出来る、
  長男・長女に限られる

  つまりは我が子を守るためだ。

  長子以外を世の危険から守れるほどの、
  経済的・体力的余裕など、
  村長クラスにより指揮監督される立場では
  持ち合わせていない
のだから、

  長子以外は生涯長子を補佐する人生と心得、
  目立たずひっそりと過ごしておれ。

  すなわち長子であれ長子以外であれ、
  分を弁える、と言うのが、
  地方農村集落に生まれ落ちた者の、
  基本命題となる。

  これまではな。


文化の固定化がもたらす問題点2つ

  何処のどのような文化であれ、
  等価であり、
  優劣は存在しない、
  と私は考えるがそれ故に、

  成立したその当時の形のまま、
  今後も残されるべきとは考えない。

  時代の流れに応じて、
  変化を求められるのもまた必定。

  何となれば、
  文化は固定化すれば必ず、
  以下二つの問題を発生させる。

  1、繰り返す度に信じ込まれる。
   聞かされた側もだが、
   言っている側もだ。

   本来の意味合いであった気遣いに思い遣り、
   実際に身近にあった脅威などは忘れ去られ、
   ただ昔からそうであるからと、
   無条件にただ繰り返す事を良しとされる。

  2、真実に貶められた場合に救いが無い。
   親のどのような言葉に傷ついても、
   また傷ついた事を訴えても、

   「親は子供を誉めないものだ」
   「他所のどの家に訊いたってそうだ」
   と親の方が自分たちの言動こそ、
   当然のものと思い込んでいて意に介されない。

   しかし本来謙遜とは、
   他所から誉められた場合に、
   「いえいえ。大したものでは」と、
   自分たちも込みで下手に出るものであって、

   わざわざ先回りして、
   訊かれもしない時点から、
   他所に赴く度に他所の人と一緒になって
   我が子を貶して回るものではなかったはずだ。

   そうした履き違えた発言は、
   「親からも嫌われるほど出来の悪い子」だと、
   集落中からも誤って受け取られ、
   親の思い込みをますます補強するものとなる。

   それは長子以外が土地を離れる。

   文化どころか集落自体が、
   消滅間近にもなるというものだ。



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