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【小説】『マダム・タデイのN語教室』7/10の下

(10回中7回目の下:約5500文字)


「(N語の否定は全体の、ほんの一部なんだね?)」
 キッチンでお湯を沸かしていたところで、多分そんな事を訊かれた。
「真ん中が、動かない、が大事って思ったら、否定って状態が変わるだけなの」
 私も手を動かしながらだから、伝わるかどうか分からないなりに答える。
「ウゴカナイ。だけど、ドーシ、『ウゴク、コトバ』?」
「動かない、という動きも含めて、動詞なの」
「フィロソフィ(哲学)?」
 フィロソフィ、って聞いた覚えはあるけど意味は何だったかしら。
「(あなた達は普段から、哲学までしているの?)」
 作業の片手間じゃあもう理解できなくなってきたけど、ステファニーも答えを求めている雰囲気じゃない。
「(それどころか私には、N語が歌っているようにも聞こえるよ。多分、母音がほとんど常に入るって感じが、私には、ほんのちょっとずつだけど音が、伸びて聴こえて、音符とか、アクセントが付いている感じに近いんだ。もしかしたら、なんだけどあなた達の国は、遠い昔に気持ちや情報を、小鳥みたいに歌って伝え合っていたんじゃないのかな。だったら素敵だね。N語で言うのは難しいし、違っていたら恥ずかしいから、言わないけど)」
 テーブルにポットとカップと、お茶菓子を並べて、紅茶を注ぎながら訊いてみた。
「ご主人は、ロウは元気?」
 そうしたらステファニーは「エヘ」って、ニヤけて赤くなった頬を押さえてくる。
「スゴク、ゲンキ。ウフフフッ」
 早速手を付けやがったなあの旦那。
 それで良いのよ御夫婦なんだし。それどころか私、「はよ食うたれ」くらいに思っていたはずなんだけど、かえってそう思っていたからかしら、あっさり決着しちゃって悔しいみたいな、可愛い教え子がとうとう人のものに、って元から御夫婦だってば。あと「もの」みたいな思い方も失礼よね。
 ここで「おめでとう」って言ってみるのも、一緒に暮らして2年の御夫婦にはおかしいし、かと言って無反応でいるのも、今嬉しそうな彼女に悪いような気がして、
「お子さんが楽しみね」
 って我ながら微妙な言葉を口にしたら、
「ナイン!」
 って顔を真っ赤にして否定してきた。
「(そうじゃない! そんなところまで行ってない!)」
 照れだけじゃない顔の赤みと勢いで向かって来て、そう言えば、ステファニーは毎月体調を崩していて、その原因も分からないんだし、今子供を望んでいるとも限らないわねって気が付いた。
「(ロウは、確かに私を愛しているけど、だけど……、ああ! 分かってもらおうと思う方が、間違ってるよね! 私は全ての事情を話せていないんだから!)」
「ごめんなさい。今のは、良くなかった」
 口にすると「ゴメン……」って呟いて、困った様子で首を振ってくる。
「セツコさん、ゼンブ、ワルイない。ワタシ、おこるチガウ。今、おこるない」
 今までにも時々しっくりきていない感じがあったけど、D語の「ゴメン」ってN語よりもずっともっと、真剣なんだわ、ってようやく分かった。
 ステファニーの前に五十音字表と、今日渡したページ2枚を並べてもらって、私は自分のノートにメモを取って行く。
「ロウとは、どこで出会った?」
 私も気を付けて、普段動詞の後に付けている色々な飾り言葉を、今は付けないようにしゃべらないといけない。
「D国」
「ああ。そうだった。ロウは、旅行してたって聞いた」
 だけど、飾りを落とすって、意識していないと結構難しい。
『(旅行)』
 D語の音声を出すと、ステファニーは目を伏せて、
「ロウオトウサン、くるた」
 そう言ってきたから、
「ちょっと待って」
「え」
 私の側のノートは、聞きながら取ったメモで走り書きになるから、ステファニーのノートを使わせてもらう。
「直しながら話しましょう。細かいところも少しずつ」
 直した文章をまた、ステファニーに向ける。
「ロウのお父さんが、きた」
「き? くる、が、き?」
 そこに答え切れる自信は無かったから、
「ロウのお父さんが、どこに?」
 ってちょっと逃げた。
 ステファニーの前に一行ずつ、参考になる文章を増やして行く。ノートを受け取ったり上下逆さにしてから戻したり、手間はかかって我ながら、ご苦労様ね、って思うけど、彼女の方でも言葉を調べる時間が取れるし、そのまま持ち帰ってもらえるから。
「ワタシ、の、イエ……」
 指先でくるりと円を描く。
「近所、かな」
「キレイ、ちがう。マズシイ。キタナイ」
 中にはちょっと、ノートを受け取ってまで書くのはためらう言葉もある。
「ロウのオトウサンは、キタナイ、ない。いい、コート。みんなは、おどろく、た」
「ロウのお父さんは良いコートを着ていて、みんなは驚いた」
「オトウサンは、ワタシ、に、ナマエきくた。ワタシは、はなすた」
「お父さんが名前を訊いて、私は答えた」
「オトウサンは、ワタシ、カゾクする、はなすた」
「お父さんは私を家族にするって言った」
「ワタシは、カゾク、ない。カゾクにする、わからない、た」
「私には家族がいない。家族にするって言われても、分からなかった」
「オトウサンは、わらうた。みんなは、わらうた。ワタシは、コワイ。すごくコワイ、た」
「私はすごく怖かった」
 聞きながら指を動かしながら、2年くらい前にはよく見ていた光景が、頭に浮かんでくる。膝に乗せられていた子供に、流暢なN語。奥さん達の笑い声。誉め言葉。土で汚れた夫の指が、ぶちぶち引きちぎる草。
「ロウは、オトウサン、の、ここ」
「ロウはお父さんの隣にいた」
「ロウは、わらうない。はなすない。みんなは、ロウコワイ、いうた。だけど、ワタシはコワイない、た。オトウサン、コワイ、た」
「ロウは笑わないししゃべらない。みんなはロウを怖いって言った。だけど、私は怖くなかった。お父さんの方が、怖かった」
「ロウとロウのオトウサンは」
「二人は、にしましょう」
「フタリは、ワタシと、ホテル行く、た。ホテルは、フタリ、泊まるた」
「二人は私を連れて、泊まっていたホテルに戻った」
 戻ってきたノートにステファニーは目を瞬かせていたけど、じっくり見たらつながって行く感じで頷いた。
「オトウサン、D語、はなすない。ロウは、D語、はなした」
「ロウはD語を話してくれた」
 ノートを見てステファニーが、首を傾げる。
「クレタ?」
「ロウは、お父さんにはN語?」
「はい」
「それなら、あなたのために、話してくれた。あなたに、くれる」
 続けて2、3回、ゆっくりに感じる頷き方をする。特に急がせる必要も無いから、私は言葉が出てくるまでを待つ。
「ロウのハナシ」
 間接話法か直接話法、みたいな話は聞いてから、雰囲気で決めればいいわ。
「オトウサンはワタシ、カゾク、にするた。だから、ロウはカゾク、キョウダイなる」
「お父さんは私を家族にした。だからロウも家族の、兄弟になる」
「N語、のオトウサマ、オニイサン、はじめてきくた」
「あらお父さんが『お父様』で、ロウは『お兄さん』?」
 つい苦笑してしまったけど、
「そう! 私もそれ、きいた! ロウは……」
 ステファニーも食い付いてきた。だけど、言い方が分からないみたいで悩んでいる。
「ロウとオトウサン、オトウサン」
 二つ並べた手を片方だけ上げてきたから、
「ロウよりオトウサンがえらい」
 答えたら「そう!」って笑顔になった。
「ヨリ、ヨリつかう。ヨリアトが、ウエ……、チガウ。ツヨイ。コトバが、ツヨイ」
 比較級の言い方が分かる事が、そんなに嬉しいんだって、見ていたら勉強って本当は楽しかったんだ、もっと楽しく感じても良いものだったんだわって、今までを損したみたいな、息子にも損させてたみたいな気持ちにもなったけど、今までの全部が台無しに感じるほど、間違っていたとも思わない。
「ワタシは、ロウのキョウダイ。ロウは、オトウサン、いう。だから、ワタシは、オトウサンいう。ロウとオナジ」
「ロウに、そう言った?」
「はい!」
「ロウは、どう答えた?」
「こたえ、ない。だけど、スコシわらうた」
 ご主人の(ステファニーが隣にいない間の)大人しめな笑顔が、私にも浮かんでくる。
「N語、のダイジョウブ。ロウは、よく、はなすた。ダイジョウブ、ブラブラブラ……、ダイジョウブ、ブラブラブラ……」
 D語の「ナニナニ」って言い方みたいね。
「ロウは、D語の『Toi toi toi』、いう、た」
 大丈夫、は好きな言葉みたいって、前にも聞いて気付いていたから、
「あなたは、安心した?」
 笑いかけたらステファニーは、
「いいえ」
 固く聞こえる声で答えてきた。
「ロウは、カナシイ。ずっと、すごく、カナシイ。ロウは、ダイジョウブ、ない」
 ノートを受け取って、だけどどう書こうか迷っていたけど、
「ワタシは、おもうた。ロウ、のホントウ、わからない」
 ステファニーがそう続けたから、推測にしておく。
「ロウは哀しそうだった」
「ロウは、タブン、ロウのベッド、で、え?」
 ノートの「e」を差しながら首を傾げてくる。
「ええ。うん」
 おお文章を続け出すぞって、私の方でも息子が掴まり立ちした時みたいな、嬉しい緊張感。
「ロウのベッド、でて、イス、すわるた。ロウのベッドはワタシ、つかうイイ、いうた」
「ロウは自分のベッドを出て、イスに座って、ロウのベッドは私が使っていいと言った」
「ワタシはベッド、にはいる、て、ねむる? た? て?」
「私はベッドに入って……、うーん。何か、覚えているなら、る」
 辞書を取って多分「覚える」を調べて頷いた。
「ねむる、マエ、N語のオトウサン、きくた」
「眠ってしまう前に、お父さん、って聞こえた」
「だからワタシは、いれた」
 目を閉じて、眉間の少し上あたりに、人差し指を立てて、息を吸ってからステファニーは口を開く。
「……この子は、やめておきましょう」
 ご主人が今ステファニーの後ろに隠れてるんじゃないかってくらいに、ご主人の声そのままみたいに聞こえた。
「育ち過ぎているし、すでに賢い。連れて帰る意味がありません」
 思いがけない特殊能力!
 指を放して、目を開けて、
「ロウは、やさしい、おもうて、ねむるた」
 出してきた声は元のステファニーに戻っている。
「それは……、よく」
 口にして「よく」は便利だけど、色んな意味に取れて分かりにくい、って気付いて、
「いつも、出来る?」
 そう言ったらステファニーは首を振った。
「いつも、できない。すごく、つよく、いれる、おもう、て」
 胸の前で広げた両手を、勢い良く合わせて、握り固める。
「できる」
「すごく覚えたいと思って、集中したら出来る」
「ここ、いれる。ワタシは、ここにいる、ヒト、わかる」
 あれ? 「覚える」とはちょっと違うみたいって、メモを取りながら思った。
「ゼンブちがう。スコシ、いれる。だから……、ココロ、ホントウ、わからない。ロウがN語いう。N語、わからない。ロウ、のN語、のナカミ、わかる」
 いや特殊能力中の特殊能力!
 だけど、ロウ限定で分かるのね。道理でご主人がずっとN語で話し続けていたり、「それでも伝わる」とかぬかしてきやがったり、仕事中のご主人のマネが、ずいぶん上手かったりしていたんだわ。
 言葉は分からない。心が読めるとかでもない。ただ外国語で話されても理解できるって、ずいぶんと不思議、と言うより何のために? って思うけど、
 そうか。外国人、とは限らない。周りで色んな言語が飛び交っていたり、自分や一家全体が遊牧とか交易で暮らしていたら便利、だけど、相手が限定されているのが気になるわ。自分からは伝え切れない、相手の言葉は知らないまま、よっぽど特定の人とだけどうにかコミュニケーション取りたい状況って……、って考えていたらピンときた。
 はっはーん。ステファニー、その時点でロウに照準を合わせていたわね。
 だったら言葉まで分からなくても、ねぇ。向こうの方で気になるもの。近付いて来てD語の方こそ「教えてくれ」とか言い出すもの。ステファニーに自覚は無かったかもしれないけどね。小太りだろうがチビだろうが、いずれハゲると思われようが、古典ミステリーに読みハマって時々探偵気取りのしょうもない事言って来ようが、
「コイツだ!」
 って頭じゃなく脊髄辺りで狙い定めた感覚が、思えば私にもありました。
 それにしてもずいぶんと長く考えるだけの時間があったわ、って気が付いて、ノートから顔を上げるとステファニーは澄まし顔でお茶を飲んでいる。
 えっ……。
「終わり?」
 って思わず口にしたら、「い?」って手元の資料を覗いてきた。
「ああそうじゃなくて、話は、もう、終わった?」
「はい。ロウと、であった」
 それは、そうなんだけど、私は、その先が気になる。どうなったのか何か起きたのか、起きていないならいないで、どういった流れでロウの奥さんになったのか、お父さんはなぜ出て行ったのか。
 とりあえず私もお茶をひと口飲んでから、ため息の後で口にした。
「お父さんは、今どうしている?」
「いない」
「うん。家にはいないって、聞いてる」
「ずっと、セカイに、いない」
 ティーカップを両手に包み込んでステファニーは、顔を上げてくる。
「ロウのオトウサンは、しぬた」
「死んだ」
 口先ではつい直しちゃっているけど、それどころじゃない。
「……どうして?」
「私が殺した」
 短い文章だったからだと思うけど、そこだけ何の間違いも無く、N語としても違和感無く聞こえて、かなりゾッとした。


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