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信頼と敬愛

 私が苦手とする事二大巨頭。


 どういう事か、
 そんな人間がいるものか、
 苦手も何も自ずと湧き出る感情ではないか、

 といった事を訊ねられそうではあるが、
 まずは聞いて頂きたい。


 一つの例として、
 私はヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』に、
 ドハマリしまくった人間ではあるが、
 ヴィクトル・ユゴーその人が好きか嫌いかはまた別だ。

 ヴィクトル・ユゴーの作品なら全て、
 面白く感じるわけでもなく、一方で、
 つまらなく感じた作品の著者は常に、
 私にとってつまらない作品を世に出すわけではない。

 これは私にとって基本原則なのだが、

 ある作者の作品は常に面白いばかりか、
 誰にとっても面白いはずであり、
 面白く感じなければ異常あるいは不幸であり、
 自らも面白く感じなかった場合は、
 作者に何かしらの問題を発生させた者がいると、
 わざわざ悪人を捏造する人も、
 少なからずいるように感じている。

 そこに一般的には「信頼」や「敬愛」と呼ばれる、
 感情が関わっている気がするのである。

 何か不都合・不利益が起きた場合に、
 (多くは自分自身を含む)信頼し敬愛する存在を守るため、
 そうした存在が原因とは思いたくないがために、
 そうした存在以外の者を原因とする。


 父方の一族並びに両親が、
 自分自身や姉を守りたいがために、
 ずいぶん多くを根拠無く、
 私のせいにされたためでもあると思う。
 (私は「一族の呪いを一身に受け生まれた」という、
  狂気に満ちた物語まで捏造して)

 私はある特定の存在を、
 無条件に信頼し敬愛する事が、
 大変に苦手だ。

 しかしながら、
 「それがどうした」という思いもある。
 不都合・不利益をただそれだけの状況であり、
 そもそも誰が原因でもないと見る事が出来る。

 これはわりと誇るべき性質ではないかと思いもする。


 一つの例として、
 今日配偶者は夕飯に某飲食店に行きたいと、
 私を乗せて車で向かったのだが、

 駐車場の停めたスペースのそばに、
 珍しく丈の低いブロック塀があったために、
 配偶者は開けたドアの端を少し傷付けてしまった。

 もうそこからは配偶者に、
 夕飯を楽しむ余裕など無い。
 「最悪だ」「クソ」と呟き続け、
 帰って以降も機嫌が悪く現在ふて寝中であるが、

 私としてはただ店側の設営と、
 こちら側の都合が合わなかっただけであり、
 端のキズ少しで済んで良かった。
 それとブロック塀が私の側に無くて良かった。

 傷付けたのがもしかして私だったなら、
 車を愛するがあまり配偶者は、
 私がよっぽどの謝意を示さなければ、
 生涯許さなかったかもしれないなと、

 私は配偶者すらも無条件には信頼していない。

 しかしながら、
 「それがどうした」という思いもある。
 もちろん配偶者の悲嘆も理解するので、
 「そんな小さなキズ気にするな」
 といった暴言も吐かない。

 人間は皆ある程度そうしたものであり、
 常に冷静穏やかでは有り得ない、
 という絶対的な信頼ならある。

 家族でさえなければ両親すら、
 私は「いい人」くらいには思うだろう。
 あくまでも「多くを私のせいにされた」
 という関係性を恨んでおり、

 関係性が無いところに恨む道理は存在しない、
 という基本原則を理解できている。

 これはわりと誇るべき性質ではないかと思いもする。

 

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