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庶民の宗教(ただし新興宗教寄り)

 昨日の記事は実は、
 一昨日の記事の裏側を語るための布石であった。

(文字数:約2300文字)



PLと高野山のハイブリッド

  何を隠そう私の配偶者一家は、
  PL教団に入信しており、

  団体は異なれども宗教二世、三世が身近に多くいるわけだが、
  配偶者の場合は更に一捻り加わっていて、

  義理のおじい様は亡くなるまで、
  決してPL教団に入信しなかった。
  だって仏教は真言宗の総本山である高野山の出身なんだもの。

  そんなわけで一応はPLに入信したお義父さんも、
  一族の墓を整理した上で高野山のふもとへと移し、
  招魂式には自分の兄弟達に加えて、

  一家の中では次男だけを呼んで、
  「この墓はお前に任せた」
  とはっきり告げた。

  ……という話を私はその次男、すなわち、
  当時付き合って一年足らずの彼氏から聞かされたのだが、

  何せそれまでの人生経験上、
  誰のどんな話もある程度は聞ける人間に育ったもので、
  引く様子も嫌がる様子も見せず交際を続けた事で、
  「肝の据わった人だ」
  と結婚相手に考えてくれたらしい。

  そしてお義父さんも亡くなり、
  コロナ直前までに三回忌を終えたのだが、

  墓が二種類あるもので、
  葬儀も二宗派の二種類だ。
  はっきり言うが大変だった。

  しかし未知の世界に触れられて面白かった、
  と思える私スゲェ。我ながらハンパねぇ。
  普通やらない。
  私だって私の存在を婚家一族から喜ばれていなければやってない。

  他所からいらした嫁に気持ち良く働いてもらいたければ、
  まずは喜んで迎え入れるがよろしい。

成因にメリットも考えてみよう

  そもそもなぜ今頃になって、
  宗教二世、三世が問題となって立ち上がるのか。

  断言したい。

  旧日本軍と当時の政権が、
  戦後処理を放棄して敗走したからだと。

  裁判により戦犯が処刑された以上、
  全ての責任を放棄したとまでは言わないが、
  国民の生活に安全は真っ先に投げ出した。

  書類に証拠の類だけを持ち出して、
  爆薬に危険物はそのまんま。
  地域を汚染しても子供が爆死しても顧みず、
  闇市が無ければ日々の食品流通もままならない。
  復興に生活再建は進駐軍にお任せして、
  一方で進駐軍のための慰安施設は様々に建て、
  まぁ細かなニーズにまで対応している。

  占領下にあったのだから致し方ないとは言え、  
  その程度の組織だったものに敬意を抱く義理は無い、
  と申し訳ないが少なくとも私は、そう考える。

  それまでの政府が一旦は機能しなくなった以上、
  我が国は戦後から数えて78年分の歴史しか無いのだと。

  政府が機能しない間の庶民の辛苦たるや、
  我が国に限らず筆舌に尽くし難い。

  満州に生まれたお義母さんは、
  敗戦当時はまだ幼児であり、
  PL教団の人々に一家揃っての帰国を手伝ってもらい、
  途中で命まで救われている。

  帰国後も生活面で仕事面で助け合う共同体となった。
  今現在ももちろんコミュニティだ。
  それは入信するし離れる事など考えない。

  その一方で我々は、
  毎月会費等を支払って顔見知りなのだから
  (注:私本人は入信していません)、
  お義父さんの葬儀もスムーズに執り行ってもらえたし、
  お義母さんにデイケア施設などを世話する必要も無いわけだ。
  日頃から昔馴染みのコミュニティで過ごせているんだもの。

もちろんデメリットもある

  つまり新興宗教といったものは、
  政府が機能しなかった間に、
  大変に重要な役割を占めたものだ。

  政府が一応は機能している現在においては、
  戦後の混乱期ほどの重要性は存在しない。

  今の政府だってどうなるか分からない、
  それならば神しか頼れない、
  と戦後世代は恐怖にも駆られて思い込むのだが、

  神仏のみは永遠として頼りに出来たとしても、
  残念ながら、
  人間集団はどこの何であれどうなるか分からないものだ。

  何故ならば集団は常に風通しが悪い。
  新しい感性や意見を取り入れる努力を常に続けなくては、
  空気は容易に濁る。

  二世・三世には自分の意志で選択できる権利を持たせろ。  
  そこは集団が機能できるための最低条件だ。

  少なくともPL教団の中の配偶者一族に関しては、
  自分の意志で脱会届を提出し、
  受理された後も普通に付き合いがある人がいてホッとする。

寄付という軽く持ち出される割に重い話題

  布施なり喜捨なり用語は団体によって様々だろうが、
  関係者であれば寄付金は必ず求められるので、
  言っておきたい。

  くれてやる、
  と思えて即忘れ切れる額しか、
  支払ってはならない。

  そのためには同居する家族から、
  後に文句など出てもならない。

  これだけ払ったのだからきっと神仏の御加護を受けられる、
  みたいな考えに至る、あるいは至らされるようであれば、
  即刻立ち去った方が良い。

  くれてやる、
  と思える金額を家族で確認し合える機会は、
  数年に一度程度であれば、
  結構悪くもないものだ。

  くれてやる、
  と思える金額が存在する事自体、
  すでに恵まれているという事実も自覚できる。

  ただしその際は、
  人として家族に対する慈悲を持っているのであれば、
  最も少ない金額を口にした者に寄せに行け。

  寄付金の多さ少なさは信仰心を反映しない。

  繰り返す。
  寄付金の多さ少なさは信仰心を反映しない。

  人にはそれぞれの事情がある事くらい、
  悟らせてくれる神仏を信仰してくれ。
  そこは切実に頼みたい。

以上。
ここまでを読んで下さり有難うございます。

何かしら心に残りましたらお願いします。頂いたサポートは切実に、私と配偶者の生活費の足しになります!