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身体性の砦と拠点

ここ最近、身体性という言葉をネットで見かけることが多くなったと感じる。自分としてはこの言葉をある程度ポジティブに受け取るような文脈を受容してきた意識があったから、自分がいまその言葉の用いられ方を目にするときに嫌悪感とはいかないまでも抵抗感のようなものを感じていること自体に引っかかりがある。

ITの印象的な展開について書き手が身体性を持ち出したりするのを目にすると、イメージはわからなくもないけど実際それを持ち出してきて何か嬉しいことがあるのか、という反発の気分を自覚する。身体性とさえ言っておけばそこに人間固有の領域が確保されると思っているのか、そもそもそこで持ち出された身体性とは何のことを言っているのか、と。

こういった反発においては、自分の中での身体性の観念そのものと同時にその観念がどういう文脈に配置されていると感じているのかという言語の運用面がどちらも問題になる。前者は書きながら考えていくとして、まず後者の語用についてメモをしてみる。

反発の内容でもふれたように身体性という言葉が持ち出されるとき、そこでは人間固有の領域が危機にさらされている状況へのパッシブな砦としての身体性という文脈と、一方で自分にとって馴染みのあった身体性の語用には広い意味での制作にとってのアクティブな拠点という文脈が託されていたように思える。
では身体性の語用が状況への砦であり、制作への拠点であるのは何によってか。ここで改めて身体性の観念自体を考える必要が出てくる。はじめから厳密にそういうことをするのは自分には難しいので、(とりあえず、仮に)まずイメージにそれをあずけるとするなら、身体性のある種のブラックボックスという側面がそこでは援用されているんじゃないかと思う。
(とすると自分に馴染みのあった制作の拠点としての身体性の語用にもある意味でネガティブといえる面があるのかもしれない)

解き明かされ難い(と思われている)からこそ砦となり、拠点となるブラックボックスとみなされる身体性。では身体性がブラックボックスとみなされる文脈はどう構築されるか。

ほとんど中身がないまま力尽きた感あるけど身体性の観念を具体的に考えるのはまた次の機会に。身体性の概念をブラックボックスでなく肯定的に扱っている(ような気がする)認知科学や、人間の身体性と動物の身体性の比較みたいな方針で考えてみる、かもしれない。

少しずつでも自分なりに考えをすすめて行きたいと思っています。 サポートしていただいたら他の方をサポートすると思います。