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土日日記、稲荷の林 2022年10月23日週次投稿

週のはじめの記述のストレッチ、週次投稿です。
今回は土日の日記です。



土日の日記とはいうものの既に何があったか思い出せなくなっている。
たしか土曜日は午前中に少し長めの散歩をしたはずだった。少し長めの散歩をしたということは家のことを気にする意識が低くなっていたというのもあると思う。少し長め、ということの前提は他にもあるだろうけど、気兼ねなくそうするには朝食の後の片付けだったり、リビングの掃除だったりという細ごましたことをやっていることが散歩中の意識に関わってくる。
でも何を片付けたか思い出せない。そこそこやったんだろう。

土曜の散歩では、これまで辿ったことのない道を歩くことを大体の目当てにして、習慣的というにも大げさな西側へ向かう1本道の通りを歩いていた。
自宅の近辺3キロくらいはこの1年くらいの散歩の習慣で大体は歩き尽くしてしまっていて、ある程度制限のある時間の中で歩いたことのない道を散策するのに、まずその3キロの範囲から外に出るにはどういうルートにしたらいいかということを考えていた。

いくつかある高速道路の高架下のトンネルを念頭に真っ直ぐ歩いていくと、役所や消防署や店の並ぶ道が途中で細くなる。色々都合があったのだろうと思うその道はもともとは林だっただろうという印象を残す木陰の暗がりの通りで、それを過ぎると高速道路の袂で突き当りになる。いくつかの住宅を回り込んでトンネルをくぐると、自分の生活圏を離れているという実感がすこし出てくるような農地の間の明るい細道がひらけて見える。

しばらくその細道を歩くと、また視界の暗さの印象が大きくなる林に接する南北の通りに突き当たって、何となくその通り沿いのローソンでフランクフルトを買い食いしてしまう。そこまで美味しいと感じているわけではないのに何故かたまにコンビニのフランクフルトを買い食いしている。

ローソンのフランクフルトは袋がコンビニのフライドチキンと同じようなキリトリ線のある袋にいれて渡されたけど、あれは何の意味があるんだろうか。
キリトリ線で破いて分割した袋からフランクフルトを一旦口にくわえて、2つになった袋を左手にまとめながら右手でケチャップとマスタードの容器をパキっと折ってから、くわえたフランクフルトの棒を左手に持って、棒をなぞって絞りかける。また口にくわえて、袋にケチャップとマスタードの容器を入れる。袋を左手にもって棒を右手にもちかえる。この一連の過程のどこがキリトリ線付きの袋になって変わったのか、あまりよくわからない。とはいえコンビニの外で突っ立って食べる、という使われ方をしなければ便利になったところがあるのかもしれない。

海苔付きのコンビニおにぎりの袋もマイナーチェンジされたことがあった気がするけど、ひととおりの手の動かし方が違うだけで便利になったとは感じなかった。そのうちに慣れてきたと思うだけだった。
何か俺また変な勘違いしてるのかな、と不安にならないまでも曖昧な疎外感みたいな印象が残る。

通りからまた狭い路地に這入ってしばらく歩くと、農地で囲まれた狭い範囲の林が道を曲がった拍子か何かで目に入った。近づいてみると看板にその稲荷神社の由来や言い伝えが書いてある。

・・・稲荷さまの境内の木を切ったり落葉を掃いた者は、怪我や病気にみまわれるなど、いろいろ災いが起こるようになったため、その後、境内の清掃等は主守りの方のみでしています。また、このお稲荷様は、子供の夜泣きに良く効くとされ、別名「夜泣き稲荷」とも呼ばれており、今でも近在や遠方からの参拝があり、人々の信仰を集めています。・・・

落葉を掃く、という記述の印象と常緑樹が主となった眺めにはギャップがあり、範囲もおそらく時間の経過につれて限定された林を眺めながら、通り過ぎていったいくつかの時間の纏まりのことを考えていた。

看板の文章を書き写しながら、しばらくの時期つづいていた下の子の夜泣きと平生の粘つく頭の重さのことが思い出された。
たしかにあれは大変なものだから、と画像の林を見比べた。

少しずつでも自分なりに考えをすすめて行きたいと思っています。 サポートしていただいたら他の方をサポートすると思います。