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10. バイト先で溺れかけた話

僕は一定の周期で、なぜだか鼻水が止まらなくなる。
その周期に入ると、箱ティッシュがなければ生活が面倒なことになる。
おそらく、アレルギー性鼻炎かもしれない。
あとは、鼻毛を抜いた次の日あたりなんかはくしゃみが出やすくなる。毛を抜くせいで鼻が刺激されるからなのだろうか。僕は、自分が花粉症かもしれない現実をあえて無視している。
『病は気』からなので、本当は病院で診察してもらったほうがよいのだが、僕は認めないのだ。
春休みに入り、僕に突然この鼻水周期がやってきたのだ。
朝起きてしばらくすると、くしゃみが出だして、昼になる頃には、箱ティッシュを手放すことができなくなっていた。
アマゾンプライムで映画を観ていても、くしゃみでいちいち中断されるせいで、全く物語りに入っていけないのだ。映画も途中で観るのをやめてしまい、布団に寝転がって、ずっとスマホをいじりながらごろごろしていたのだ。
こういうときにYouTubeの存在はありがたいのだ。集中して見る必要が無く、くしゃみで中断されたとしても、まったく気にならないのだ。OLのルーティン動画とキャンプ動画が特に好きでいくらでも見ていられるのだ。ちなみに好んで見るアニマルビデオもOLものが多い。
どうも年上好きのようだ。
そうしてYouTubeの動画を見ている内にバイトへ行く時間になった。
週に5日もバイトをしていると、面倒臭いという感情がなくなってしまい、むしろバイトが無い日は何をしようか考えているうちに半日が過ぎているということがよくあるのだ。
僕はバイトに行くための服にさっさと着替えてしまい、家を出た。
歩いている間本当にくしゃみが止まらなかった。くしゃみをすると、そのくしゃみをしている間にまた次のくしゃみがやってくるという具合にどんどん出てくるのだ。
呼吸するのももはや、プールでクロールするときの息継ぎみたいなのだ。
バイト中にだけはくしゃみが収まってくれると良いのだが。
お客さんの前で「へっくしょん!へっくしょん!」などと言って、接客が中断されるのはあまりに気まずいのである。
バイト先についてからバイトの制服に着替えるまでの間、全くくしゃみが止まる気配などなかった。一応ポケットティッシュをズボンにいれおきいつでも鼻をかめるようにしておいた。
僕は、これから深海のそこへでも潜っていくのかというくらいに大きく息を吸って、事務室から出た。
夕方は、会社や学校などから帰宅途中の人たちのラッシュが始まっており、バイト開始早々に僕はレジから離れられなくなった。
次から次へと押し寄せる人たちを僕は店長仕込みの超高速レジ打ちでどんどん捌いていった。
お客さん捌きはじめて6人目くらいで、鼻がむずがゆくなってきてしまい、くしゃみが出そうになった瞬間、商品にかからないように即座に後ろを振り向き「はっくしょん!」とおおきくくしゃみをした。それから振り向きレジを打ちはじめて、またくしゃみが襲ってきたのだ。そうしてもう一度後ろに振り向き「くしょん!」とくしゃみをした。そして…これを文章に起こすのは面倒だ。とにかくここから「くしょん!」が3回ほど続いたという事実がわかれば十分だろう。
この時点でようやくお客さんを捌き終え、次のお客さんに、「いらっしゃいませ!」と言おうとした瞬間、全く声量が足りていないことに気づいたのだ。まずい、身体の空気貯蔵量が少なくなっている。事務室で溜めておいた分はもうすでに底をつきかけていた。僕は、息継ぎを試みた。
商品のバーコードを読み取っている間に大きく息を吸い、その吸った空気の内3分の1くらいを使って、「合計○○円です!」と言った。
お客さんがお金を出す間に息を口の横側に穴をつくり、その穴からゆっくり吐き出した。
なぜこんなことをするかと思うかもしれないが、もし息が臭かった場合にお客さんに不快な思いをさせてはいけないという、コンビニバイトのプロとしての心遣いからなのだ。
ようやくお客さんがお金を出し、お会計を済ませ、僕も一息つこうとしたのだが、くしゃみは収まる気配を見せなかった。レジ前で販売している揚げ物がお客さんラッシュでほとんど無くなってしまい、急いでフライドポテトやら唐揚げやらを揚げ始めたのだが、いちいちくしゃみが邪魔をして手間取ってしまうのだ。
そして何より、くしゃみの頻度があがってきてしまい、息をするのがやっとなのだ。
もし、ここからまたお客さんラッシュがくれば、大袈裟かもしれないが溺死してしまうだろう。
くしゃみをして、鼻をかみ、揚げ物を揚げ、くしゃみをし、鼻をかみ。こんなことの繰り返し。もううんざりなんだよ。
知っておいてもらいたいのだが、『笑い過ぎで溺死』はとても幸福な死に方であるが、『くしゃみで溺死』は、あまりに不名誉な死に方なのだ。
親より先に死ぬほどの親不孝はないと言うが、『くしゃみで溺死』のほうがよっぽど親不孝な死に方なのだ。
そうこうしているうちに、またお客さんラッシュが始まり出した。
僕は、プロのダイバーのような冷静な判断で息を吸うタイミングを見極めた。
「よし、大丈夫だ。保つこのままのペース配分でいけばこのラッシュは乗り切れる。」
と安心した矢先、常連のOLお姉さんが来たのだ。ハーフっぽい顔立ちでとても綺麗な人でかなりタイプである。
僕の心拍数はダイビング中に人食いサメにでも出くわしたのかというくらい上昇した。
このお姉さんの前だけではくしゃみはできない。そんなダサいところを見せる訳にはいかない。だが、心拍数が上がってしまったせいで呼吸が乱れてしまった。
商品をスキャンしている最中に大きく息を吸って、なんとか乗り切ろうとしたのだが、一気に酸素がもっていかれるのだ。
くしゃみが出そうになるのを鼻の中間部をつまみなんとか我慢して、少し顔を横に向けて息を思いっきり吐き出した。
なんとか会計を終えると、店長から「おい、チキンは揚がってるか?」と聞かれた。
フライヤーを見てみると、チキンは揚がっていたので、「はい、あがっています!」と言った。
店長は接客中のお客さんにチキンが揚がっていることを伝え、「チキン一つ取ってくれ。」と言った。僕は、フライヤーの中のチキンを取り、チキン用の袋を取った。
そして大きなくしゃみをチキンにぶちまけた。


ああ、あの日はほんとうに苦しかった。
呼吸の話をしているんじゃなくて、『心』の話をしているのだ。

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