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「350円」伝説

「350円」がこの度、離婚したらしい。理由はやっぱり「ドケチ」だった。

一から説明します。それは遠い昔、私が新入社員だった頃。部署の忘年会に行くために、当時35歳だった男1人+新入社員女3人の計4人で、会社からタクシーに乗った。男は、スマートに「俺、前、乗っから。お前たち、後ろ3人で窮屈だと思うけど、すぐ着くから。わりぃ」とか言って乗り込み、運転手さんにスマートに道を説明し、スマートに会計を済ませ、スマートに夜の新橋の街に降り立った。「さすが35歳の男性!」と私らヒヨコが目を輝かせたのも一瞬のことだった。次の瞬間、男はこう言った。「俺、350円出すから」と。

ヒヨコたちの頭はフル回転した。確かメーターは1,550円だった。1,550円ー350円=1,200円÷3=400円。①計算間違い ②3で割り切れる数字にする為に、苦肉の策 ③ドケチ。(正解は③)

ヒヨコの分際で、35歳の大人に軽くぼったくられたにも関わらず、ヒヨコたちはなんとなく、「あ、ありがとうございます」なんて礼まで言って、男は「いいよ、別に」位のジェスチャーをして、チャリンチャリンとヒヨコたちから回収した小銭を財布にしまっていた。SL広場の辺りを通ると、今でもあの時の気まずい空気を思い出す。そして翌日からその男のあだ名は「350円」となった。

「350円」は、他にも数々のドケチ伝説を打ち立ててくれたので、よく女子社員たちのトークの的となった。「地下食料品売り場での試食荒らしとしてブラックリストに載っていて、高島屋に追われている」「トイレットペーパーは一回に3㎝しか使わないらしい」などという、「それは、さすがに、ない」みたいなことまで、まことしやかに噂されていた。シリアスな悪口とは違って、「350円」のドケチシリーズは、罪のない笑いとして、私たちの生活に深く浸透していた。

そんなある日、ヒヨコ仲間(既にその時はニワトリに)の一人が、ドラマなんかで、意を決した人が、意を決した発表をするシーンと寸分違わぬ様子で目をギュッと瞑ってこう言った。「驚かないで聞いてね。私……350円と結婚するの」と。SL広場前でぼったくられた時の数倍驚いた。1秒の沈黙すら耐えられなかったのだろう、私たちが息を吸うのも許さないタイミングで、彼女はこう言った。「いいのいいの、今とっても困ってるのは分かるから、何も言わなくていいからね」と。しかし、本当に何も言わないわけにもいかず、「え……でもさ、結婚するなら、しまり屋位の方がいいよ。ギャンブル狂とかさ、ほんと勘弁じゃーん」という、驚くほど空虚な言葉がテーブルの上をさまよった。今思えば、「350円」をどうにかして誉めなくては!という強迫観念ゆえに、一番肝心な言葉である「おめでとう」というセリフを誰も言わなかった、というのが致命的。

その日を境に、「350円の妻」と私たちは、いきなり「350円」を話題にしなくなった。100→0。あまりにもわざとらしい振れ方だったが、仕方がない。徹底的に話題にしないので、「350円夫妻」がどのような生活を送っているのか、全く未知のまま月日は流れた。

そして先日のこと、突如として「350円夫妻の離婚」が発表された。結婚報告の後は、離婚報告しかされていないので、聞きたいことが山のようだったが、「350円の妻」は、「350円」への積年の恨みを、余す所なくカミングアウトしてくれた。

日常的にもドケチ過ぎて涙が出ることは多々あったようなのだが、一番我慢ならなかったのは、旅行の時だったという。なんでも、昨年の韓国旅行では、ネットで調べた格安ホテルに夫婦で宿泊したが、ベッドにノミが沸いていて、痒くて一晩中眠れなかったという。「なんとその部屋、窓がない地下の部屋なのよ。囚人なのかって話。『350円』たら、『俺は豪華なホテルなんて何の興味もないね。だって寝るだけだぜ。ゴキブリさえ出なけりゃいいよ』が口癖なんだけど、私、その時ばかりは体中ボリボリ掻きながら、ああどうかゴキブリ出ますように。出て!お願い!そしたら、『ゴキブリ出たね』って言ってやろうと思ったのよ。でも出なかった。だからね、『この部屋、不気味ね。北へつながってるんじゃないかしら?私たち、明日の朝、生きてる保障はないわね』って、渾身のブラックジョーク言ってやったんだけど、奴、クスリとも笑わなかったわよ」と語る「350円の妻」は鬼気迫っており、私たちは身を乗り出した。「それで?他には?」と、情報をむさぼった。

「私が離婚しようって思ったのは、今年の関西旅行の計画立てた時ね。京都と大阪に行くってことは決まったんだけど、どうせケチなのは分かってるから、『京都では、アパホテル泊まろうよ!』って、まるで『ハイアット・リージェンシーは改装中だから、ウェスティンにしようよ!』みたいなノリでわざと言ってみたら、『アパか……いいけど、最近メディアにやたら出てるから、値段吊り上がってないか、よくチェックしろよ』って、まさかのアパチェック食らったのよ。本当はね、京都ではアパという控えめな提案をして、大阪では、リッツ・カールトンに泊まりたいって、驚きの暴挙に出てみるつもりだったの。そう、まさかのリッツ。どうしてもどうしても、私、リッツに泊まりたかったの。色んなサイトで見たら、お得なプランもあったから、そう高いわけじゃないの。で、『大阪では……リッ』って、そこまで言ったらね、あの人、『リッツなんてダメだぞ』って、私の言葉を遮って言い放ったのよ。何がイヤって、『リッ』だけ言っただけで、『リッツ・カールトン』を連想出来るってこと。知ってんだ、リッツのこと、っていう。ってことは、昨年、ロッテも新羅もコンラッドも知ってたくせに、北へ通じる窓のないホテルに泊まったんだって思ったら、もう情けなくなっちゃって涙出ちゃって。これが大学生の彼氏だっていうのなら、かえって好印象よ。でもね、白髪の生えたオッサンがって思うと、泣けるでしょう?おまけに、つい興奮して、『私たちには子供がいない。だからこそ、少しは2人で贅沢して楽しみましょうよ!』とも言ってみたけど、それでもダメだったの……もうこの人とはやっていけないと思ったわ」とのこと。

でもさ、「350円」にも、いいところはあったんでしょ?という私たちの質問に、彼女は即答した。「ない」。
んじゃ、しょうがないよ。

すさまじい年月を経て、再び解禁された350円伝説は、期待を大きく上回るものだったのです。




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