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夜風に香る、幸せを運ぶ髪

真っ暗な夜道に浮かび上がる美容院が好きだ。
毎日通る住宅街の坂の途中に、小さな美容院がある。お客さんが帰った後、見習いの美容師さんたちが、マネキンのカツラを相手に、真剣な顔でカットの練習をしている。その姿を外から覗くと、私はいつも背筋が伸びる思いがする。大抵私はホロ酔いで、あとはもう寝るだけだというのに、美容師さんたちはまだ戦いの真っ最中。そこには、働き方改革とか、テレワークなんて概念は全く通用しない、腕一本でやって行く世界が広がっている。人が真剣な面持ちで技術を習得し、夢を叶えようと努力する姿は本当に美しい。

さて、私の担当の美容師さんは、数々の世界的なコレクションも経験している、いわゆる「トップスタイリスト」と呼ばれる女性だ。美容師さんの中にはひどく饒舌な人もいるけれど、彼女は私の髪を触る間、決して多くを語らず、ひたすら鋏を動かす。けれども、私の毛先を見つめる強い目線とか、ほんの数ミリの違和感も許さず、何度も何度も手間を惜しまず調整をする職人気質な様子から、ああ、きっとこの人も、夜道に光る美容院で数えきれない時間を過ごし、そして夢を叶えて今ここにいるのだろう、そんなことを感じさせる。

私がある日、「自分の髪のうねりがとてもイヤだ、スーパーストレートの人が本当に羨ましい」とこぼしたことがある。その時、彼女は、やっぱりちょっとクセのある自らの髪を指差してこう言った。「その気持ちはよく分かります。私、高校生の時、目の前の席に座っていた子の髪の毛がとにかくうらやましくて。真っ黒で真っ直ぐでサラサラで。彼女の髪の毛が風に揺れて光るのを、授業中、ずっととうっとり見つめてたんです……」
珍しく鋏を持つ手を止め、遠い目をした彼女を鏡越しに見つめ、もしかしたら、その体験こそが、彼女が今ここに立っている理由なのかもしれない、私はそう思い、いい話を聞いたなと思った。
すると、彼女はすぐに鋏を動かしながら、こう言った。「でもね、自分の髪の毛について、100%不満のない女の人って、私は一人も知りません。猫っ毛の人は弾力のある強い髪の毛を、剛毛の人は、ニュアンスのあるウェーブのある髪を。とにかく女の人は、皆、ないものねだりですから。ただ、それでも皆、今持っている自分の髪の毛を大事にして、少しでも綺麗に見えるように努力するんですよね。女の人って可愛いですよね」と。

それ以来、私は朝の通勤電車の中で、周りの女の人の髪の毛を注意して見るようになった。髪の長さや質は十人十色だけれど、それぞれ皆、自分に似合う髪型を見つけ、まとめている。考えてみれば、仕事やプライベートでクタクタな中、髪の毛をきちんとすることはかなり面倒なことだ。濡らしてシャンプーをつけて、泡立てて、すすいで、乾かして……。その行程を、毎日毎日、どんなに疲れた日にも、女の人たちは頑張っている。そう思うと、私はなんだか、女の世界そのものがいとおしく思える。

そして、女の人にとって、面倒なはずのシャンプーという行為そのものが、幸せを運ぶ時がある。たとえば、真夏の真っ盛り、会社帰りの19時に男の人とデートの約束をしているとする。一日働いているのだから、頭にも体にも汗をかいている。もちろん、制汗スプレーなんかを駆使して、なるべく清潔になるよう気をつけるけれど、やっぱり汗だくの地肌で行くのは気持ちが上がらない。そこで、えいや!と17時上がりのフレックスを取ってまで一旦家に帰り、急いでシャワーを浴びる。そうして、お気に入りの素敵な香りのシャンプーで髪の毛をよく洗い、しっかり流した後、コンディショナーを丁寧に揉みこむ。その後、再びよく流すと、フワフワのタオルで髪を大事に包み込み、そして、根元からドライヤーで乾かしていく。真っ直ぐに伸ばすところは伸ばし、カールを出すところはクルンと巻く。艶々に整った髪の毛をかき上げ、一からメイクをして、お気に入りのワンピースの肩にバッグを引っ掛け、サンダルで外に飛び出す。すると、夏の夜独特の湿った香りと共に、今、洗ったばかりの髪の香りがふんわりと混じる。
そして、彼の待つお店のドアを開ける瞬間、揺れる彼女の毛先には、とても甘い幸せが訪れる。こんな努力を彼は知らない。でも今日はとても上手くいきそう。
綺麗な髪が幸せを運んで来る瞬間だ。

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