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同情されるのが嫌で会社を始めているのに僕が彼らの同情を助長しているのではないか?

「異彩を、放て。」をミッションの福祉実験ユニット「ヘラルボニー」の副代表をしている松田文登です。

メディアの取材を受けると「お涙頂戴のストーリーをください。」と言わんばかりの質問が飛ぶときがある。落差のある話が欲しいのかと汲み取り、相手の意向を飲み込む。

次の日の見出しには「障害者の兄の為に障害者アートで〇〇」なんて見出しが掲載される。自分で撒いた種が自分に降りかかる。こんな見出しは不本意だ。

"障害者のために"という打ち出し方自体が僕は根本的に嫌いである。「〇〇のために」というのは上から見下しているのではないかという違和感が生じるからだ。

メディアがすべて悪いわけではない。僕の伝え方に問題がある。
掲載される喜び以上に、何とも言えない感情が僕の心をモヤモヤさせる。

同情されるのが嫌で会社を始めているのに僕が彼らの同情を助長しているのではないか?
僕はいつも不安になる。

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「障害者」という言葉について

伝え方が「障害者」という言葉でしか一般市民に伝わらないのも根本的な問題の一つであると思う。一括りにすべてをまとめあげてしまう、実は「障害者」という人物はこの世に存在しない。この言葉は世間の同情対象になりやすいが故に一種のヒエラルキーを生み出してしまう危険性が伴う。令和では新しい言語が誕生することを期待したい。

僕は「障害者」ではなく「障害のある人」という表現をよく使う。
アートの場合も同じで「障害者アート」ではなく「障害のある方が描いたアート」という伝え方をする。
この違いに皆さんはどう思うだろうか?

僕の中では敬意の評し方が全く違う。この違いは小さく見えるかもしれないが、僕にとってはとてつもなく大きな違いである。障害という言葉の伝え方しか存在しないのであれば、僕は障害のある方と伝え続けようと思う。

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「同情」という対象からの脱却

僕は親の目線でも無く、支援員の目線でも無く、兄弟の目線で障害のある方と向き合っている。私が副社長を務めるヘラルボニーという会社は、双子の片割れが社長をしている。その4つ歳上に兄がいて、自閉症という先天性の知的障害がある。男3兄弟だ。我が家は兄との食事に優劣も無く、プレゼントに差がある訳でも無く、ごくごく普通に当たり前の日常を過ごしている。フラットに生活している環境の何処に同情の余地があろうか。ただそれは家の中だけの話である。
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兄は家から一歩外に出れば「障害者」という同情の対象になっている。**

僕は同情されることが根本的に嫌いである。兄も同情されることは嫌いかもしれない。僕が小学生の頃、親戚がこんなことを言った。
「〇〇だってこんな風に産まれたくてこの世に生まれたわけじゃない、かわいそうに」
この言葉が僕の耳元で根深く強く残っている。

血の通った親戚すらも障害とは可哀想という認識で生きている。
一度、福祉施設などに遊びに行ってみてほしい。私たちよりも愚直に生き、本能のままに人生を謳歌している方が大勢いる。そんな場所を知るだけでも人の認識というのはグラデーションのように変わっていくのだと信じている。

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「個」として認識を促すために

障害は擁護対象なのかどうかという論争をする気は全くない。障害のある方には一人一人の人生があり、ストーリーがあり、それを「個人」として捉えてもらいたいと感じている。そして僕は彼らの社会的ヒエラルキーのフェーズをフラットな位置に持っていきたいという思いがある。「障害」のイメージ変容をヘラルボニーとして実験していきたい。

そのためにアートという選択をしている。アートというフィルターを通して「知る」というゼロとイチが埋まる機会を創出し続ける。

長い時間が掛かるとは思う。しかし、既成概念に囚われない自由で革新的な・アートを、もっと幅広い人達が目に触れる世界へと持っていくことで、彼らと社会とのゼロイチの機会を創出することができ、結果的に活躍の場が増え、偏見・差別・賃金格差解消のキッカケとなるのではないかと、僭越ながらそう考える。

まずは「知る」母数を増やし続けることに奔走していきます。


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