見出し画像

垂直の「親的福祉」と水平な「兄弟的福祉」。

「異彩を、放て。」をミッションに掲げる、ヘラルボニー代表の松田崇弥(双子の弟)です。

平成から令和に移り変わる前の2019年3月24日、娘が誕生した。

「崇弥さんにソックリですねー」って言ってもらうのは素直にうれしいけど、ちょっぴり不安。だから、やっぱり奥さん似で。お願いできたらなあと。

可愛くて、可愛くて、可愛くて、可愛くて可愛くて、もう仕方がない。最近少しぷくぷくしてきたとか、眉毛が生えてきたとか、夜泣きのスパンが少しだけ短くなったとか、子どもの毎日にはたくさんの「成長」が詰まっている。ひとつひとつの「できた!」に一喜一憂できることって、この上ない喜びだ。

客観的にみても娘は可愛いのは間違いないし(実は全く客観的ではないと思うが)、「えー」とか、「うぇー」とか、コトバは分からないのだけど、不思議と通じ合っている気がする。 娘は憶えていないだろうこの瞬間は、ぼくにとっては忘れられない今なのだろうと思う。(カメラフォルダがもうパンパンです)


先日、【いわきでいごいて死ぬ人たちのウェブマガジン「igoku(いごく)」】という、福島県・いわき市役所が運営する攻めに攻めた大好きなメディアにインタビュー記事を執筆してもらったのだけど、記事中にこんな一節があった。

福祉の強度や愛の深さで個人に寄り添おうとする垂直の「親的な福祉」と、社会の偏見を解消しようとイメージ変容を水平に広げていく「兄弟的な福祉」の二つのベクトルがあるのかもしれません。両方あってよくて、二人の場合は、常にベクトルが社会の偏見に向けられる。

自分の心の中にストンと、ふか〜〜〜〜〜く腹落ちした。ああああああそれだ、それだよ!と思った。

我が家は男双子(ぼくは弟)の4つ上に自閉症という先天性の知的障害がある兄がいる。記事中にある「親のベクトル」、そして「兄弟のベクトル」。家族という点では確かに共通しているのだけど、それは確かに"ちがう"、断言できると思った。

ぼくらの父・母は過去も今も未来も、自閉症の兄に悩まされ続けるし、いつまでも子供のままでいてくれる兄に救われ続けるハズだ。(ある意味、子離れも親離れもできない共同体である)

兄弟である僕らはある種、幼少期から学生時代も含めて、兄の社会と接触する部分を共に伴奏してきた存在。つまり、家族間で抱く感覚と「社会とのギャップ」に苦悩する体験は親以上に多い気がしている。

つまり、共同体として「内側(障害のある本人)」に向き続ける親と、学生終了後に家を離れ、過去のトラウマ体験や認識のずれに悶々とし続け「外側(社会)」に矛先が向く兄弟と。リンクしているようで、きっといつまでもリンクしないのだろうと思う。今回の記事を通じて、知的障害の兄弟がいるぼくたち双子がどうして、社会のイメージ変容を目的にヘラルボニーという株式会社を推進しているのか、ようやく言語化ができた気がしている。

と同時に、愛の深さで個人に寄り添おうとする垂直の「親的な福祉」に対して、ちいさな命と共に暮らし始めたいま、ぼんやりとわかる。娘は今日も明日も数十年後も、未来永劫かわいい存在なのだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?