Barca

ゴルフインスタとかした私のInstagramではあるが、ひと休みを兼ねてバルサことFC Barcelonaについてのそのいち、今回は私とFC Barcelona(以下、バルサ)を語りたい。

そもそもゴルフを始める前の私といえば、昔、流行った脳内メーカーをしてみれば、ほぼ全般をFC Barcelonaで埋め尽くすような人だった。小学校からサッカーを始め、サッカー一筋だったし、ある程度プレイヤーに向いていないと自己判断ができる頃からは、その熱は観る方に傾いていた。

小学生、中学生の頃の私は三浦カズ選手にあこがれるどこにでもいるサッカー少年で、高校への進路相談の際、その希望にカズをまねて第一希望、ブラジルと記したという、痛い話まである。

ちょうど中学生になり、Jリーグが始まると叔父が務めていた全日空が、プロチームを地元の横浜に作ると知る。横浜といえば日産マリノスだったが、子供の頃からひねくれものの私はどうも2番手を選びがちな性格だった。 最初こそ弱かったものの、数々のブラジル人代表選手が所属し、サポーターとしてスタジアムに足を運びいつかはフリューゲルスになんて夢も一緒においかけていた。

その愛するフリューゲルスは今となっては覚えている人も少ないくらいかもしれないが、スポンサーがなくなり、あろうことにライバルである日産に吸収合併をされたてしまったのだ。 高校生だった私はその事が受け入れられず、それを機にJリーグそのものを観なくなった。

少し時間を戻して、フリューゲルスがまだ存在した時、バルサから有名な監督を招いていた。その名はチャーリーレッシャク。彼は御大ヨハンクライフの右腕で、バルサの哲学をフリューゲルスに持ち込む事を期待されていた。結果としてバルサ流は簡単には浸透せず、半年で解任されてしまったが、その時、高卒ルーキーだった、元日本代表の遠藤ヤットをレギュラーに据えて育ていた。 レシャックといって有名な話は、まだ子供だった、現バルサの大エースであるメッシを、とある大会でみかけた際に、この子凄い選手になる、今すぐに契約すべきだといって、その場にあったナプキンで契約を交わしたというバルサにおけるレジェンドだ。 

そんなフリューゲルスはその年のイヤーブックのまとめで、フリューゲルスはバルサを目指しますと将来をかたっていた。バルサはヨーロッパの頂点に何度も立つ程のクラブではあるが、その運営はソシオと呼ばれるいわばファンの年会費なりで成り立っていて、Jリーグや多くの外国のクラブとは違い、企業のスポンサーが元になっているわけではない。フリューゲルスはその後の未来を予知していたというのか、将来にわたってはソシオを募って運営してきたいと語っていた。

そんな愛するクラブをなくした私がサッカーに情熱を失いかけていた頃、ブラジル代表だったリバルドがバルサに入団していた。それまでバルサにはあまり興味なく、むしろ全盛だったイタリアに興味を惹かれてはいたが、リバウドがバルサでプレーするのであればと、少ない中継を見始め、そのうち熱心においかけるようになった。

バルサの特徴はそのソシオだけではなく、中興の祖ともいえよう、バルサにおいて御大ヨハンクライフのサッカーが全てにおいて詰まっていた。

加えていえば、後にシャビやイニエスタそしてメッシを生み出したラマシアと呼ばれるユース年代の寮を設置し、子供の頃からバルサのサッカーを叩き込んだ。

サッカーに関しては、美しくなければ、勝っても意味がない。このコンセプトが私の心にドンピシャとはまった。私が見始めた頃のバルサは確かに弱かった。ドリームチームというバルサの何回目かの絶頂期を経て、うまくいかなかった世代交代もあり、ライバルのマドリーとの差がずいぶんと開いていた。この頃を日本のファンにおいては暗黒時代と呼ぶ。またこのバルサとマドリーとの歴史もまた2番手を好む私にはめちゃくちゃ響いていた。

その後の活躍はもちろんメッシなど含めて皆知る事になるのだと思うが、暗黒時代を知る頃のファンとしては、強いバルサに慣れるのは相当の時間がかかった。

そもそも私の事をサッカー好きと認識する友人は多いが、それは一部間違いで、私が好きなのはサッカーというよりバルサなのでだ。バルサの選手が活躍するW杯などは、選手が望もうと、疲れてリーグの試合に影響するのが嫌だから、基本的には辞めてほしいと思っている。他のチームましてや、他のリーグ試合は基本的にバルサと試合しない限り観ないし、観てもあくまで対戦前情報としてしである。

ましてやJリーグはあれからどのチームも応援、観戦する事はない。

バルサと私。なぜ私が暗黒時代からずっとバルサを愛しているかといえば、愛するフリューゲルスを奪われたからであり、レシャックやリバウドがバルサを与えてくれたからだ。

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