日記231219 (生は我欲)

つまり痛いのが嫌だとか、死ぬのが怖いとか、リラックスして気持ちがいいとか、座敷でゆっくり寝転びたいとか、高級なマッサージエステを受けたいとか、それらは理性的に認識される我儘な欲の一環なのではないか。本質的に存在とは、命とは、常に死にたがっているのではないか。と考えて、色々な仮説が整合し始めている。生存本能ってのがあるらしいと、結局誰も彼も人は生きたいのだ、それを超える衝動や苦痛があったときに臨界するのが自害だと信じていたし、誰よりも死をこわがっている一人だと自覚しているけど、そういう欲をかいているだけで、この命は、存在は、一番根源的な意味で、死にたがっていて、そこに乗っかった理性と自我の自覚が抗い続けた結果、生きているにすぎないのだと。だから老いるし、だから寿命があるのだ。おれはおれの我欲で生き続けたいが、身体からの応答がないとか、より強い流れに飲み込まれていくのであれば、欲を捨てるのがあるべき姿なのではないか。思春期をとうにすぎて、自我の死を怖がっている人間が周囲にいないようすなのがとても不思議だった。本心から死後の世界の存在を信じている人を除いて (除くにしてはボリュームがありそうだが)、そうでなければ、他人に客観的に訪れる死と、自己に主体的に訪れる死は全く別のものであり、自己の死を客観的に観測するならばその観測主体は誰でありどうなるかを考えなくてはならないはずだ。物語の終わり、映画の終わり、そういった外部のストーリーテリングと自己の死は何一つ重ねられない体験だろうと。であれば、死の恐怖に正面から向き合ってそれを諦めるってどういうことなんだ?「次」も一切存在しない完全な消滅、完全なすべてとの別れ、自己を観測する自己すら完全に無くなることについて正面から考えてそれを諦められるってのはどういう思考なんだ?とずっと思ってきていた。でも違うんだ。みんなそうか、「真に死にたがっている自分」と向き合って、表面的な我欲を割り切って(諦めて)、自己の真の根底にある死にたさを自分と同一に受け入れたということか。その過程でまあ少しぐらいは我欲も満たすけども、そこに拘泥せず、一番大きな命そのものの死にたさをささやかに彩る程度に留める、だから死が大して怖くないのか。そうであればとても筋が通っている。滅私しきったときに眼前に個の死があることに納得がいく。おれは自分の真の死にたさを勝手に「いいやほんとは幾らでも生きたいんだ、死にたくないんだ」と我欲で塗りつぶさずに、直視して認めてあげるべきなんだな。


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