日記240322 (感情/理性, AND/OR)

 多くの性格診断テストなどでは、「感情的に行動する」「理性的に行動する」のカテゴリーに人間が振り分けられる。右脳派/左脳派と言うこともあるし、MBTIならFeeling vs Thinkingなどになるか。

 果たしてこの分類法はどれだけ現実に迫っていて、活用できうるものなのだろうか?とよく思う。

 なお、以下の文章に学術的な見地からの情報や意見はマジでない。ただ「XX学ではこの単語は実際こういう定義で了解が取れていて〜」みたいな話には興味あるっちゃある。

 あと完全にどうでもいいが、おれは性格診断テストやるのが暇つぶしとして結構好きだ。痰壺に向かってオレバナをひけらかすのと近い。"100の質問"をやるだけやって公開しないとかね。設問にブツブツ文句つけながら進めるのもそれはそれでレクだ。そして提示される結果は全く気にしていないが、回答過程の自問自答によって得られる自覚は面白いと思っている。

 つまり、ある程度勉学した人が「人は文系/理系に二分できて片方にのみ適性と必要性がある……なんてことはありえない」と感じるようなことだ。

 もちろん前提によってこの二分にも価値はありうる。ある立体の断面図ひとつから立体そのものを復元できないとしても、最初からある断面の話だけしているのなら意味はあるのだ。
 文理の喩えを続ければ、ある人がとくに専攻する一分野がどこに制度的にカテゴライズされるかをその人自身の属性として表現したってまあいいし、カリキュラム選択の制度・効率都合上事前に粗く振り分けられることでもいい。

 すなわち二分すること自体よりも解釈の問題であって、「人間の根源・本質が二分できるんですよ!」な万能論はちょっと、😅、だよねというだけだ。
 ただそういう外部定義に縋って観察と思考を省略するとラクなのもわかるから、せめて欺瞞をちゃんと頭の隅っこで意識しながらラクしよう。おれも適度にラクするぜ。

 で話は戻って、「感情的な人間/理性的な人間」についても、まあある断面の解釈によってそういう二分が可能かもしれないが、それはその人間総体を表現・定義し得ないだろう、ってのがまず1つ。

 もう1つは、これって実は「苦手"じゃない方"」を個性に仕立て上げてるに過ぎないんじゃね?っていう話。

 「おまえは論理的思考力がないのにサボって我儘を通そうとしてるだけじゃないのか。」「おまえは他人の気持ちを察せずに人を傷つけている現実に蓋をしてるだけじゃないのか。」「それらの我を通すための自己正当化として"私はこういう個性の人間"という言い訳を設定してるだけじゃないのか。」と言いうるかもしれない。
 (ちょうど「数学がわからんから文系にしました」「歴史できないから理系にしました」みたいな話かも。)

 言ってるだけで暗くなるからまあこれはいいや。ていうかむしろ、そういったネガティブネスをちょっとでも忘れて前向きに生きるための言い訳なのかも。やぶ蛇かもしれないね。許し合っていこう。

 最後に一番大きな話。おれは「感情と理性、どっちかで良いわけないだろ。己の両方を重視し、他者の両方を重視する。それでやっと一人前でしょう」とずっと思っている。
 なぜなら、↑で言ったように"苦手の逆"によって二分定義するとしたら、片側を捨てることは単に欠点を抱えているにすぎないからだ。

 もちろん、欠点を抱えたままありのままの自分を愛せばいーよね、という気持ちもある。が、もしもただの先入観が、先天的で回避不能な欠点 = 個性だと勘違いさせているのだとすれば……? 克服しようと前進してみる価値があるはずだ。
 実際おれの尊敬する人々は、卓越した理性と論理の使い所を情緒でコントロールできていたり、感情の発露と意志の完遂のために論理的な方策を拵えていたりと、それぞれの良し悪しを組合せることで高いレベルで活動できているように映る。当人の自覚がどうかは知らないが……

 ここでもう1つの軸を導入する。感情的な/理性的な決定によって取る行動の種類を、かりに「個人的な/社会的な行動」とパラメータづけてみる。これは、「このあと自分がお米を食べるかパンを食べるかを決定する」「迷子っぽい子どもに声をかけるか・どうかけるか決定する」のような違いで、他者とのコミュニケーションであったりパブリックに何かを提示して共同体に影響を与えたりする要素について問う。二元論ではなく、あくまで連続的だが、とりあえず両端に個人的/社会的と名付けてみた。

 いかなる個人的な振る舞いも、あなたが構成要素の元である以上その集合を変容させるのであり、原則的に影響はゼロにできない。
 とはいえインパクトの規模感について考えることができる。有意に小さいと誤差として吸収・無効化されるノイズフロアは存在する。

 おれは共同体内での生き方について、人に優しくすべき、また"迷惑をかけない努力の責任"が正直まあ存在すると思っている。「巡り巡って自分の得になる」とかよりも手前で自明に存在する倫理の感覚がある。
 この前提がない人 (ぜんぜんいていいし、いる) にはちょっとわかりづらい話になるかも。

 つまり上記を組み合わせると、「コミュニケーティブ、パブリックではない/ある」→「それは個人的/社会的な行動」→「そこには考慮の責任が少ない/多い」とざっくり見立てることができる。

 そしてやっと今日言いたかったことのゴールなんだが、「個人的な行動については、感情/理性のどちらで決定しても良い (OR)。社会的な行動ほど、感情/理性の両方を駆使して検討すべき (AND)。片方で立ち止まって満足すべからず」が理想なんじゃないか? と考えていた。

 「今朝はパンが食べたいっ!」という感情でパンを食べても、「今日は夜外食だから朝のうちに昨日の残りご飯を消費しとこう」という理性でご飯を食べてもいい。
 その判断・行動から発生する結果を個人で引き受ける以上は自由である。好きにすればいい(この例なら、家庭という最も小さな世間での社会性については要考慮だけどね)。そしてどちらも選択可能であることで個別事例のリターンを都合よく調整できる。

 「あの子は迷子に違いないからとにかく助けなきゃ!」と声をかけるのはいいけど、感情だけで考えなしで突っ込んで怖がらせてもいけない。逆に「別に迷子なんかじゃなかったら恥ずかしいし不審者や誘拐犯の冤罪をかけられるリスクもあるし……」と理性で無視を決め込むのもどうか?
 行動の結果が個人の中に留まらず、なにか事故を誘発しかねないときはそれを回避するよう努める、感情/理性の両輪を融合・駆使して弱点の少ない形で運用する。

 あらためて言わずとも多くの人が自然にやっていることな気もするが、むしろうまくいかねー時はこのバランスに思いを馳せることで原因がわかるかもしれない。
 (課題の種類と目標設定次第では「片輪だけ思いっきりドライブさせたほうが打点高いんですけど」、という断面もまあ存在はするだろう。)


 そんなわけで、「感情的に行動する」「理性的に行動する」のカテゴライズを単なるフェチズムの話以上に解釈すべきではあんまりなくて、両輪をトレーニングし扱えるようにしておくことで、「ORによる選択の自由」「ANDによる責任への対応」が理想化できる…… なので、先入観の強化だけ一旦ストップして、他人にキャラを押し付けるのもやめて、カテゴライズからの逃走を図ろう。

 ちなみにMBTIのFeeling vs Thinkingは「どちらの動機を好むか」の性向指標だと最初から明言されている。ほかの性格診断類もまあそうでしょう。われわれがどう受け取るかの話っす。


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