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愛を語ること

こそばゆい《愛》について

科学の分野では、《生命体》という言葉は良くても、《魂》という言葉は使えないそうだ。その言葉を使った人の論文は一気に相手にされなくなるという。《愛》という言葉だって、きっと使えないのだろう。どんな分野にも共通言語があって、「この言葉はこういう意味だ」という前提を共有していると、話はスムーズに進む。その共通言語にどれを選ぶかは、自然に淘汰されるし、時代だったり、背景によっても違うけれど、でも、その分野ごとの特徴があるなあと思う。

私たちの中にある、《愛》。友人は、「愛、と言うだけでも、恥ずかしくて抵抗がある」と言った。私だって、普段《愛》について語るのは恥ずかしい。愛を連呼する人は、自分に酔っているように見えたり、宗教活動していたり、ぶっとんでイッちゃってる熱い人か、勧誘かと怪しまれるイメージがある。《愛》という言葉を使う時、私は慎重に、相手の反応を見ながら言葉を添えたりして使う。

悪用される《愛》

ただ、やっぱり、《愛》がないところで生きてはいけない。男女の愛ではなくて、慈愛や思いやり、自他を大切に思う気持ちが愛だとすれば、私たちは愛によって動かされている。そして、愛を伝えたり、愛による行動を起こす時、私たちはしあわせな気持ちを感じている。

けれど世の中は、それこそ科学の世界のように、《愛》について懐疑的な態度を取っている。誰かが愛を差しだそうとしても、「裏があるんじゃないか」と怪しんだり、自分の愛や優しさや思いやりを誰かが奪いに来ることを警戒している。愛が売り物になったり、悪用されたり、利用されたりすることは周知のものになっていて、《愛によって繋がること》は、私たちを脅かすとさえ感じているみたいだ。

愛を使って生きていくのは難しい

遙か昔、私が大学に行っていた頃、ある初老の男性の講演を聴いた。詳細はもうすっかり忘れたが、彼は本当に心を開いて生きている様子で、日常の些細なことから、自分が取り組んでいる活動までを、愛情豊かな視点でことこまかに紹介してくれた。彼が世界をあたたかいものとして見ていて、自分を守ることなく誰かに手を貸す様子に、私の日頃の心のガードがすっかりほどけ、「こんな大人もいるんだ。世界は捨てたもんじゃないのかもしれない」と思い、思いやりによってつながる世界の素晴らしさを夢想した。

「ねえ、講演すごく良かったねえ」と友人に話すと、友人は「ああ、あの人ね。前にあの人の講演聴いたことがあってね。今回はそうでもなかったけど、なんかこう…、こっちが恥ずかしくなっちゃってね。あまりの熱量に」という予想と違う温度の反応を私に返した。「おっと」と私は思った。私は一気に脳内の夢想を閉じ、「危ない危ない、うっかり信じて、また世界からズレるところだった。モードを戻さないと」と内心自分を制した。

もちろん、学生というお年頃も関係しているが、思春期まっただ中からは抜けた、大人の話も聞ける年齢だったし、しかもこの友人は福祉活動もしているどちらかというと熱くて心優しい人だったのだ。この友人であってもこんな印象だなんて。世界全部に自分の愛や思いやりを開いて生きていくことは、絶望的に思われた。
時折、テレビで流れてくる「思いやりによる美談」は、作られたもののような気がして、心を動かされなかった。愛は地球を救う? でも世界の日常の中で、愛を感じることはないじゃないか。なのにテレビではお涙ちょうだいとばかりに、小さなドラマを大きな美談にしている気がした。

「もういい」と私は思った。誤解されずありのまま、気持ちよく生きるのはどうやら無理みたいだ。私はこの世界の中で生きていくために、自分の中にある息づいている愛を外に出すことを禁じ、「みんなと同じく、愛が大事とは言うけれど、愛を信じていません。無害です」という旗を立てるようにした。愛は一人でこっそり味わうものになった。身を固くして、愛情の流れを可能な限りセーブし、それがいつしか当たり前になった。

制限なく愛を使う

ラッキーなことに、私が愛についてこうして語れるのは、子どもを育てられたプロセスが大きい。未熟で、小さくて、無垢な子どもに、自分のありのままの愛情を表現することを私は自分に許したのだ。家の中だから「愛を信じません」の旗を下ろしていても誰にも気づかれない。家の外にでも立てておけばいいのだ。
もちろん、愛による子育てには、猫かわいがりだけでなく、愛情によって彼らの自立を後押しするための叱咤激励もある。子育てはきれい事じゃないので、葛藤や悩みももちろんあった。けれど、私の中の愛情は彼らとの出会いによって、凍り付いたままではなく、湧き出る泉になった。

ことあるごとに抱きしめ、側に居て、悲しい時は泣き止むまで側に居たり、本人が自分のことを信じられなくなった時に、強く信じてやるようにした。私は子ども時代に自分がして欲しかったそうしたことを、彼らに惜しみなくしてみた。もちろん失敗もあったし、理想の形と違うことも多かったが、彼らによって、私は本当の意味で真の大人にしてもらい、彼らについて学ぶことで、私は大きな仕事のツールまでもらい、そのツールによって、パートナーとはさらに良い関係に発展した。

私は甘々べたべたの母親ではないので、彼らが外で自分の人生を生きてくれる時、とてもスッキリして、わーい解放されたと思う(笑)。でも、側に居るときは居るときで、私は自分の愛を使える人が来てくれたな、と嬉しくなる(もちろん機嫌にも左右される)。
愛とは、彼らのために何でも物を用意してあげたり、ちやほやしてあげることとは違う。何でも言うことを聞いてあげることでもない。存在自体をまるごと受け入れ、《本当の望み》にチャンネルをあわせてあげていることだと思う。
彼らは、うわべだったり、意識できるところにおいて、自分の望みが叶わないことは多々ある。けれど自分たちの真の願いが満たされていることは感じているようだ。彼らはずっと、深いところで愛されてきたのだ。

世間で愛を使うと誤解される

「クライアントにアドバイスをためらってしまう」という相談を、いつだったか、ある人にしたことがある。その人は私に言った。「あなたは、自分の家族には大切なことを言えるんでしょう。じゃあ、クライアントへのアドバイスは〈家族に言うように〉伝えてみて」と。

実行してみると、自分でも不思議なくらい、相手に届くアドバイスができるようになった。分かったことは2つ。①私は家族に、自分の愛を使って、本当に相手を思ったアドバイスをしているということ。②私には「世間で自分の愛を使うと誤解され、バッシングされる」という傷があるということだ。

私はクライアントに賞賛以外の愛を渡せずにいたのだ。いわば、人当たりのいい言葉以外しか使えず、相手にとって今は必要と分かっていても、刺さる言葉を他意なく言えなかった。堂々巡りになっているからこそ、もう次の段階に後押ししたいときでも、考え込む。どうやったらこの人にうまく伝えられるか。これを言ったらどうなるか。考えれば考えるほど方法論に入り込み、愛からはかけ離れていっていたのだ。
今考えると、賞賛ですら、愛からではなかった気がする。私は世間に対して大きくガードしていたのだ。それは恐れによるガードだった。

人生の中で意外とない、《愛》について考えるチャンス

今、私は「奇跡のコース」を学び続けている。真実を知る中で、私はまた愛について深く考えるチャンスをもらっていることがありがたい。恥ずかしくて、口に出せない《愛》。外に出すのを封印する《愛》。自分の恐れから、相手に伝えられない《愛》。いつの間にかかなりの抑圧をかけて慎んできた愛を、自分が愛という存在になれるくらい取り戻すことを、こわごわ、それでもすがすがしく取り組んでいる。

私が恐れを乗り越えて取り組めているのは、世界が幻想であるという前提が大きく影響している。誤解をする世界が私の作ったホログラムだとしたら、「そこに遠慮する必要なんてもうないじゃないか」と理解でき始めたのだ。誰に非難されようとも、誰に疑われようとも、私は自分が気持ちのいい生き方をしてもいいのだ。

誰にも知られずに、愛と共に生きる生き方

ああ、長くなってしまった。愛を熱く語るだなんて、お恥ずかしい(笑)。もうちょっとだけお付き合いください。

実践してみた感想としては、「自分の愛を発動して生きる生き方って、別に、人に目立つやり方でなくてもできる」ということだ。誰にも感謝されたりしないし、誰の感動も呼び寄せない(笑)。普通の日常で充分できる。むしろ、愛情を制限していたときの方が、愛情だといって騒いだり、心温まるストーリーを賞賛していた気がする。

私は日常の中で愛を使う。これまで通り、家族がメインだが、家族以外にも使う。ネットニュースにも使うし、近所の人にも、友人にも、クライアントにも、子どもたちの関わる様々な人にも意識して使う。ネットや映像の中のものから愛を使うのは、誰でもできる簡単な入門編になる気がしている。だって、相手が目の前に居ないからだ。

私たちは、相手を責めない方法で、相手とつながるやり方があることを練習しながら理解していくことができる。〈自分には見えない相手の背景がある〉ことを想像して、切り取った断片ではなく、全てをくるんと包みこみ、そこに優しくいるようにするだけだ。誰かと一緒になって攻撃しなくてもいいのだ。他を責めたときに、「いや違った、自分の愛を使ってみよう」とそっと今のチャンネルを切り替えてみるだけでいいのだ。

自他を責める棘がなくなっていく

不思議なもので、そんなちょっとのことで、世界は変わる。はじめはよく分からないが、続けていると、あなたから誰かを責めるオーラがいつの間にかなくなっていき、意外と敏感に他人はそれを無意識で感じている。あなた自身も自分にも愛を使えていることを実感したりするかもしれない。あれだけ過去のことについて思い出しては嫌な気持ちになったり、未来の不安に押しつぶされそうになっていたりしたのに、ずいぶんとなくなっていることに気づくかもしれない。愛を実践することで、本当に不思議だけれど、私たちが作り出す幻想が変化する。(源が変わることで、全体が変化する…というのはよく考えると納得できることだけれど)

行動の源に何があるか

《愛》というと大げさだけれど、実際は愛に基づく《思いやり》だったり《優しさ》だったり、《感謝》だったり、《叱咤激励》や《後押し》だったり、形は様々だ。《愛》に抵抗があるなら、優しさにしておいてもいい。その優しさが、愛に基づく優しさだと深く理解していられるなら、同じものだ。

あなどることなかれ、誰かが自分に優しくしたとして、それが何に基づく優しさかを、みんな本当に敏感に感じている。詳細は分からなくても、何か気持ち的にスッと入ってこないだの、意識に上らない「?」のような気持ちを持ったりしながら、察知している。それは、あなたも感じたことがあるだろうと思う。

だからこそ、あなたが本当に愛に基づく行動をしたら、それが普段と全く同じ行動だとしても、みんなは意識下で察知している。あなたから何かを受け取って、それをどこかで感じている。あなたが誰かに認められようと意図なく、誰にもひけらかすことなく、誰かを変えようとせず、ただ愛を使っていることで、世界はゆっくりと確実に変化する。それは私を含め、何人もで実験済みだ。

愛を語ることは、やっぱりちょっと恥ずかしい。でも愛による行動を誰にも知られずにこっそりすることは、全然恥ずかしくない。ネットニュースの記事の内容を「赦す」ことから簡単に始めてみれる。テレビに出てくる政治家やひどい事件を背景を含めて「赦し」てみる。赦そうとすると、愛が必要になる。大丈夫。誰にも知られない。トレーニングだと思って、愛を使ってみればいいのだ。あなたは愛による大実験で個人的データを取っていくだけだのだから。

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