見出し画像

【こだわり】を手放して自由になる

●【こだわり】は良いものか

こだわりというと、どんなイメージを持つだろうか。

男のこだわり… こだわりの調味料… こだわりのモチーフ…

なんとなく、愁いを帯びてかっこいい感じがしたり、選び抜かれた感じがしないだろうか。そういえば、結婚当初、夫が呆れるほど【こだわり】を持っていないことを若かった私はなんとなく残念に思っていたことを思い出す。こだわりを持つ彼の友人たちのように、多趣味で、目の肥えた男性になってはくれないだろうかと、内心考えたものだった。こだわりがある人の方が、リードしてくれたり、自信を持っていたり人だとその時は感じていたのだった。

こだわりには、なんとなくプラスの意味をもっているような気がしたりするけれど、実は【心が囚われて、自由でない】とか、【滞る】といった、マイナスな意味を含む言葉なのだと知っている人はどれぐらいいるだろうか。間違っても、「私って、そういうところ、こだわるタイプなんです」と嬉しそうに言ってはいけない。こだわりがあることは、むしろ了見が狭いようなことを公言するようなものなのだと知っておくほうがいいように思う。

●こだわりを持つ人は面倒くさい

今付き合うとしたら、1つでもこだわりを持っていない人と付き合いたい。これは、恋愛関係だけではなく、すべての人間関係においてだ。1つのことを題材にしても、こだわりを持つ人は、やれこの人にはこんな風に挨拶するものだとか、フォントはこれでとか、この人とこの人を会わせないほうがいいだの、この日程でお願いしたいだの、ついでだからこの人にこれを食べさせたいだの、何百倍ものややこしい事案が出てくる。それは最低限のリスク管理を超えたもので、その人の中に抱えた「~しなければならない」というこだわりからすべて発生する。

そこには常に不安が付きまとっている。その不安定さを埋めるためにルールが存在していて、そのルールへの確信がさらに建設的なこだわりを生んでいる。彼らと付き合う時には、彼らの世界観を一緒に体験することになるので、大変面倒くさい。はっきり言って、私もその世界の住人だった過去があるので、気持ちはわかるし、非難する気持ちは毛頭ないが、今付き合うとなると、とてもエネルギーを消耗するし、相当骨が折れる。よくぞこんな面倒くさいことをやっていたなと、自分でも呆れるけれど、その時は疑問すら持たなかった。

●こだわりがない人との付き合い

一方、こだわりがない人と付き合うと、拍子抜けするほど物事はシンプルに進む。決め事もないし、お互いを信頼しているし、きっとうまくいくだろうという信頼が基本のベースとなっている。もし何かあったらフォローし合って、その時対応する。気が付いた人が気が付いた分だけやる。そうすると、不思議なのだが、あれこれと準備したよりもうまくいく。これは一体どういうことなのだろうと考えるけれど、本当にそうなのだから仕方ない。そして、そういう人たちは、一様に幸せそうだ。ここには誰もイライラした人がいない。犠牲的に準備した人もいないし、不安を抱えている人もいない。「なんとかなる」と知っている人ばかりだ。

●こだわりを捨てて身軽になる

もうそろそろ、こだわりの時代を脱却してもいいのではないかと思う。もし、自分が何かにこだわっていると発見したら、「そうでないと何が困るのか」を自分に聞いてみればいいのだ。答えはすぐに出てくるかもしれないが、また、そこにも聞いてみる。「そうでないと何が困るのか」「それをやめてみたら、どうなるか」。

やめたり、捨てたりする必要は実際にはない。大事なことは、それを握りしめていることに気が付いて、それをやめることだけなのだ。握りしめていたものを手放して、握りしめていたモノには何の意味もないことを理解すれば、私たちは、【自分で何とかすること】をやめることができる。私たちは世界を何とかしようとせずに、リラックスして楽しむことができるようになる。面白いもので、あんなに後生大事に持っていたものに執着がなくなっていったり、こだわりがなくなるほどに自分が自由になっていくことを体験していくだろう。こだわりは、着古した厚手のコートのように、私たちを守り、私たちをいつの間にか不自由にさせていた。

●こだわりと信頼の相関関係

前述した私の夫は、今もほとんどこだわりがない。その発想はどこから来るのかと思うほどに楽天的で、眉をひそめることもほとんどない。総じていつも幸せそうで、「自分は運だけで生きている」と笑う。こうした楽天家を常々羨ましいと思い、もともとの性格や気質だと思っていたけれど、私のような内向的で、悲観的な人間でも、ふと気が付くと、彼のような考えに基づいてリラックスして行動していることが多くなっている。

そこには、「信頼」がどうやら大きく関係しているようだ。思えばかつて、私はいつも世界に裏切られ、そのために世界に自分で何とか立ち向かう必要があった。いつも苦悩や、裏切り、悲しみ、災難がある、そういう世界に生きていたために、いつも信頼がなかった。

けれど、今は私の世界には信頼がある。その世界を味わえるとは、驚きでもあり、感動すら覚える。世界は何も変わらない。変わったのは、私だ。あんなにあったこだわりは、断捨離され、今もその断捨離は続いている。こだわりの代わりに、身軽さと信頼を味わっている。卵が先か、鶏が先か、万事に備えた装備が必要なくなったのは、その装備を捨て始めたからだとしたら、この取り組みはやってみる価値のある取り組みだ。その杞憂を超えるものが、手にできる。

●面倒くさくない人間は自分にも手を焼かない

赦せる人間になろう。こだわりを1つでも取り外して生きよう。あなたが世話をしてくれる周りの人間から煙たがられる老人になるか、世話をしている方が喜ぶような老人になるかは、そこにかかっている。その時だけ取り繕ったりしようとしても、それは難しいだろう。

人に好かれるようにする目的ではない。自分が自分に手を焼かないように、自分を育てていくのだ。そうするだけで、世界はあなたへの影響力をなくし、あなたは自分の平安を手に入れられる。誰のためでもなく、生き延びるためでもなく、ただただ、自分のために。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?