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世界は幻想なのか

あの日、電車から眺めた幻想の世界

「世界は幻想だ」という概念を知ったのが、いつだったかはっきりと定かではないけれど、あるシーンをなんとなく映像で覚えている。JRの電車のボックス席に一人座り、窓の外の風景を見ながら、もし世界が幻想というなら、この外の世界も今自分が座っている電車も、本当に現実ではないというわけか、としげしげと眺め、もし現実でないとしたら、これは一体何なのだろうか、どういうことなのだろうか、とぼんやり考えていた。

今はテレビで地球の裏側に住む人の生活もわかるし、直接話すこともできる。友人とネットでやりとりも簡単だし、地球外のことも少しずつ解明されている。私は手にしているペットボトルの水を飲むし、動物園では今この瞬間だって、サルやライオンやフラミンゴが息づいている。昨日見た夕日は、ドラマチックで感動したし、横にいる人に手を伸ばせば、体温が伝わってくる。

電車の窓から見える町は静かで、一つ一つの明かりの造形すら手をかけて作ったおもちゃの町みたいだ。ここにいる私。見渡すと無言で電車に揺られている見知らぬ人たち。なんとも不思議な想定を心に留め、ずっと眺めていたことを思い出す。

あれからもう20年は経った。


超現実世界と幻想のはざまで

それからの私の生活は、大学で学びなおしたり結婚したり出産したり子育てしたりで、世界は幻想ではなかった。こなしていく必要のある超現実だった。ただ、時折、あの時の不思議な感覚を電車に乗ると思い出した。それもごくたまに。

私の興味は真理からいつだって離れなかったけれど、それでも超現実に沿ったものに自然となっていった。頭がおかしい人だと思われないように、超自然や非科学的なものを内にそっとしまって、持ち出さないようにした。そのうち、小さなころから数多く体験した不思議なことも、自然と無くなっていって、大人になるってこういうことなのかと、ちょっとがっかりしたものだった。

転機は2012年に遭った大きな事故だ。家族で巻き込まれた玉突き事故で、私は2年間病院に通う羽目に陥った。首も腰も動かせない状況が苦痛で半べそを書きながら、その現状を悲観したが、代替医療にも取り組み、そのタイミングで、もうなくなってしまったと思っていた自分の霊的な能力がなぜか戻ってきたり、人生が展開するようなことが起こったり、不思議な体験が続いた。

真実は私たちの理解を超える

私はとても気を付けていた。影が見えるとか、声が聞こえるとか、なぜか結果が分かることがあるとか、そうした説明のできない世界に、“イッちゃって”、一般世界からかけ離れたその世界だけで生きないように。初めはいわゆる世間から浮かないように生きるようにすることが目的だった。でも今は、「イッちゃった世界で生きることが、本質から離れてしまうように思うから」というのが理由だ。分離された世界で孤立して自己満足の世界に浸るとしたら、それは今回私がしたいことではないとはっきり分かったのだ。

誰にどんな風に見られるかではなくて、内なる変化や内なる統合こそが、自分が充実感を感じる鍵だと思った。実際にその方向で物ごとは進んでいったし、たとえ世間的に何も成しえなかったとしても、それが自分のしあわせとは関係のないことや、実際に成しえなかったこととイコールではないことも理解していった。あの日見た《世界が幻想である》という方が、不思議とリアルな気がしてきた。あの頃よりも、私はもっとリアリストになっているのに、世界がただのホログラムだという感覚の方が身近に感じる。とても変な感覚だ。

1つには、私が、「私には理解できない」ことを頭を下げて受け入れ、手放したことにあるのだと思う。もちろん、自分がすべてを理解できないことなんて、そんなことはとうの昔から分かっている。そういう話ではなくて、私は、「これからも絶対に理解できない」ことを受け入れたのだ。

そうしたら、そこを解明しようとするチャレンジが消えて、もう任せるという心境になった。〈ただ、目の前にあるものを受け入れる〉というのは、こんな感じなのかな? と眺めている。世界は不思議だ。でも、「ふうん、なるほど、そうなのだな」とただ面白がって見ている私になった。

二重の自分を生きる

あの時、あまりにも不思議な体験が用意されていたことで、私は一気に昔の理論的には説明のつかない体験のことをいろいろと思い出した。布石のようにあったそれらの記憶は、星座のようにつながって見えた。その後も、さらに経験したり、キーとなる本と出合うことで、実に何十年も不可思議だったことが答え合わせをするように、私が確信を持てるように導いてくれた。言語化できないこともあるし、頭がおかしいと思われるといろいろと面倒なので、具体的には書けないが(笑)、確実に言えることは、私の体験が特別なのではなくて、各個人それぞれに体験するようにプロセスが用意されていることだ。どれがいいとか悪いとか特別とかは一切ない。あなたがこうした魂に触れるような記事を読んだりすることで、何かが開いていくなら、あなたもそのプロセスをたどっているのだろうというだけ。

私は世界が幻想だとあなたを説得するつもりは毛頭ない。ただこの概念は、釈迦が般若心経で述べている概念でもあるし、取り入れて想像してみたとしても、損はないだろう。世界がもし、幻想だったら? そんな目線で世界を見渡してみるのも面白い。もし、起こっているように見えることでも、ただのホログラムだとしたら、私たちは一喜一憂する必要がなくなる。だって、原因が消滅するわけだから。実体のない仮定に腹を立て続けたりはできない。本当に起こっているように見えるものは、本当に起こっているのだろうか? 起こっているように、みんなで錯覚しているのではないだろうか。

ほら、なんだか、不思議な感覚になりませんか? 夢の中で「ああ、今自分は夢を見ているんだな」と分かった時の不思議な気持ちで、世界を見たら、これまでの体験とどう違ってくるのか、試してみませんか。


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