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分離の選択をする時、私たちはエゴのトリックにはまっている

様々な選択肢

私たちはいつもさまざまな選択肢から何かを選んでいる。葛藤が起こる時は、必ず目の前に選択肢がある。選択肢が1つなら、物事はなんでもスムーズに運ぶけれど、そうはいかない事情が出てきたりする。

今晩の晩ご飯をラーメンにするか、カツ丼にするかという選択肢なら、深刻に考えず気分によって選んだり、明日はもう一方の選択肢を選んだりして納得することだってできるけれど、私たちが葛藤することは「こうしたい」・「でもそうできない自分がいる」とか「こうしたほうがいい」・「でもそうはできない」といった、気持ちとか損得感情や、固定概念といったものと関係しているからこそ、明日はもう一つの方を選んだらいいや、といった簡単な話ではない。

現実か・幻想か、で体験の深刻さは変わる

もしあなたが、《世界が幻想なのだ》と本当に実感できたら、つまり《この体験がただの夢だ》と本当に理解できたら、その葛藤はわりと簡単になる。

だって、もしこれが夢の中だと分かっていたら、単純に、選択がどんなものでも面白そうだ。責任もないし、人にどう思われるかも気にせずに、気軽に選べる。こっちを選んだら、どんな結果になるのか、あっちを選んだら、どんなことになっていくのか、面白い実験が始まるではないか。どんな結果になるのだろう。あなたはちょっとワクワクしながら、そのドラマの展開を追っていけるでしょう?

でも、私たちの思考はなかなかそうは考えられない。私たちは肉体の感覚や、世界や世間や、人目や自分の気持ちをただのホログラムだと認識できないくらい、どっぷりと【現実】と思うものを体験している。もしこれが夢だとしたら選択は気軽で気楽なのに、これが自分の現実だとなると、目の前の巨大な難問として深刻に感じるし、「失敗しないように」と悩む。

まあ、世界が本当にホログラムなのかどうかなんてことは、その真実に突き当たることはそれぞれ個人的なプロセスが必要になるようだから、それぞれの今後の経験に丸投げするとして、選択肢と分離について考えてみたいと思う。

分離する性質を持つなら、その選択肢はエゴのささやき

選択肢を客観的に見てみられたとする。冷静に分類してみると、その選択肢は、《分離》つながり・愛かに分けられるのだと分かってきた。雰囲気からして分かるとは思うけれど、《分離》とは、何かと何かを分断する動きのもの。何か、とは、個人や組織や概念や神や大いなる流れだったりする。そして、もう一方の《つながり》もしくは《》には、逆にそれらをつなげる動きがある。

《分離》の思考は、エゴが私たちにささやく言葉だ。

「こんなことをしたって、もっと面倒になるだけだ」「どうせ失敗するに決まっている」「またダメだと言われる」「お金が無駄になる」「相手を先に攻撃しないとやられてしまう」「自分の信用を失ってしまうことにならないか」

エゴの言葉はとても強力だ。恐れや脅しを使って、私たちの慈愛や思いやりを麻痺させてしまう。エゴの言う通りにしても終わりはなく、さらに、巧みにささやかれるのだ。「もっと○○しないと、こうなってしまうぞ」と。

エゴは私たちを分離させ、孤立させたいという意思を持つ。「その先に大いなる個人のしあわせがあるよ」とささやいて、私たちに錯覚させるように、巧みにはたらく。恐れをかき立て、この悲しみや惨めさが、私たちの外にあると繰り返す。モグラたたきのように、見たくないものを次々にやっつけて、君臨したら幸せになるんだと私たちに思わせる。そこに本当のしあわせがあるのかどうかを私たちは考察せずに、その強力な誘いについ乗ってしまう。それはもう、その選択肢しか存在しないかのように。

選択肢はこれしかないと錯覚してしまう

通常、そうしたことが、「あ、エゴの思考だ」なんて私たちは認識したりしない。どういうことが起こっているのか自覚することなく、湧き上がってくる自分の気持ちや考えに振り回されたりして、その気持ちを持てあましたり、抑圧しようと頑張ったりする。抑えても抑えても湧き上がり、いつまでたってもそれは押しつぶされて消えてくれない。無理矢理押さえ込んだって、見た目には分からなくても、ぐすぐすとくすぶっていて、油断した時や何かの刺激で私たちを圧倒してしまったりする。それは本当に強力な力だ。

エゴありきの世界では、心理学や気持ちの持ち方などの方法が役に立つこともあるだろう。

でも、分かったのだ。エゴありきで本当のしあわせなどないのだと。私たちは夢から醒めない限り、本来感じているらしい〈途方もないしあわせ〉を味わえない。

何が根底になっているか

《分離》の逆の選択肢は、《つながり》もしくは《愛》による選択だ。「時分がもし、愛情を使ったらこうするだろう」という選択肢だ。実際にその選択肢を実行してみると、爽快で、魂がリフレッシュされたような喜びを感じる。

その選択ができたときは、すぐに分かる。自分自身が満たされるからだ。誰かと分け合うことがいいとか、誰かのためにするのがいいとか、気持ちよく挨拶するとか、役に立つのがいいとか、そういうことでは一切ない。それが犠牲心や罪悪感なく、自分自身の愛から来る行動なら、どんな些細なことでも、どんな形のものであろうと、それでいいと思う。もし、それが世間の常識から外れて非難されようとも、そこに共感しなくてもいい。世間はエゴを元にして動いている。

赦しの魔法

実際に実践してみると、簡単にできることもあれば、愛から行動することがとても難しいこともある。私たちはこれまでエゴを基盤に、誰かから取られないように、損をしないように、困らないように、死なないように、自立できるように、必死で生きてきた。そうやって生きている人と一緒にいたし、そう教えられてきた。そんな中で、自分一人、愛やつながりによる行動をすることは、なかなか難しくなったりする。

でも、すぐにできなくったっていいのだ。大切なことは、自分がどちらを基盤にしようとしているのか、そして、時間をかけてでも、相手を赦し、自分を赦していくことを続けていくことだ。

そうやっていくと、どんなことが起こっていくのかは、体験してみないと分からない。言葉では、きっと伝わらない。〈いい人〉になるわけでもないし、そうなるためでもない。ただ、自分の本質に触れられるようになっていくのだと思う。それは、今まで感じたことのないような開放感と安堵感がただよう、とてもリラックスした生活とつながっているみたいだ。

最近見かけるCMみたいだけれど、「そこに愛があるか」は、実はその愛を使う人に還元される、大きな鍵のようだ。

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