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スピリチュアル嫌いもいいけれど

スピリチュアルとはなんぞや

スピリチュアルってなんでしょうね?

私はこの問いかけに、かれこれ何十年も取り組んでいる。そもそも、本屋に行けば精神世界と分けられるこの類の分野に足を突っ込んでから、いまだ明確にすっきりした答えが出ない。スピリチュアル(spritual)とは、霊性だったり霊的であることと訳されるが、近年特に、「スピリチュアル」と話しても、どうも相手には意味合いがずれて伝わってしまうし、かといって、「魂の…」いや、ダメか、「霊的な…」いや違うか、「スピリット的な…」余計ダメか… 「精神世界…」なんか違う… などと、言葉を引いても足しても怪しくなるので、こうした話がまったくもってやりづらい。でも、私たち人間はそうした霊的なものと切っては切り離せない存在だ。

日本ではクリスマスも初詣も神棚もご神木も祭りもなんでもありのくせに、スピリチュアルとなると一様に攻撃してくる人もいる。「初詣は文化だ」とかいう人、歴史的に人間の文化は常に霊的なものとくっついているのです。生死論が関わってくるので、文化と精神世界は密接にかかわっているのです。

「魂」にアレルギーのある人

「魂とか信じてない、むずむずして気持ち悪い」とか言う人もいるので、こっちも「魂のようなもの」とか、よく分からない仮定の説明をする羽目になる。じゃあ、あなたの信じていないという魂とはは何のことなんだろう? 神社では何に手を合わせているの? 法事では何を供養していると思っている? と、つい突っ込みそうになってしまう。無神論者というけれど、特定の宗教への信仰がないだけで、日本人は有神論者に溢れている。

スピリチュアルにアレルギーがある人も、多分厳密にいうと《スピリチュアリティズム》にアレルギーがあるというだけだろうし、どの意見も悪くなく、多様性があっていい。ただ、私はいちいち弁解したり、説明するのが内心ではとにかく面倒くさく思っている。ええい、理解したくないならはっきりそう言って、とさえ思う。別に人類を救おうとかこれっぽっちも思っていない私が、興味のない人を振り向かせるほど無駄なことってないだろう。みんなそれぞれの自分のペースがあるし、私はそれを心から尊重する。

アンチも盲信も実は同じ?

正直過度に食いついて攻撃してしまう人も、完全拒否の人も、盲信的にスピリチュアリズムにひた走って現実世界をないがしろにしている人も、真実を直視しないという意味では似ている感じがする。こんな発想をすると、どちらからも猛攻撃を受けそうだけれど(笑)、私にはどちらも同じようなトーンの波長に聞こえる時がある。彼らは自分たち以外を「間違っている」と信じている。私はそういう発言を聞きながら、確かめようのないことを、誰がどうやって正しいか正しくないかを確かめるんだろう、といつもぼんやり考える。神様がいるということも証明できないし、いないことも証明できないではないか。

何かを攻撃したくなるなら、それは〈そこに関心がある〉ということを指し示している。盲信しすぎて自分を失っている人も、興味はあるけれど、ちょっと角度をずらして自分自身とダイレクトにかかわる本質から上手にかわしている。どちらも興味はあるけれど、直接的影響が自分自身を揺り動かしてしまうことを予見して、反応している。私は、自分自身にこういう反応が出てしまう時、ただ台風の目が近いことを理解する。核心に近づいているからこそ、あれやこれやとたどり着かせないように、エゴが上手にそこへの恐怖をあおって行かせまいとしているだけなのだ。覚悟を決めて核心に向かうと、嵐の中心には恐れていた状況ではなく、ただ静かな理解が待っている。

私たちは魂の思想を持つ霊長類

世間的にはスピリチュアルってひとくくりにして、イメージを固めすぎだ。スピリチュアルはブームでは決してない。そんなこと言ったら、人類は紀元前からスピリチュアルブームだってことになる。私たち霊長類は、字の通り、霊的なものと切っても切り離せない歴史をたどっているのだ。

私たちは霊長類と呼ばれている。霊長とは、霊妙な力を備えていて、他の中で最もすぐれているものという意味らしい。死んだ我が子の身体を愛おしそうにおんぶするのも霊長類だし、ペットを飼うのも霊長類だけだ。霊長類は生命と死について、何らかの考えの広がりを持っている種族だとすれば、私たちは霊的な発想からは逃れられない。

科学で解明できるもの・できないもの

私は科学が好きだ。科学の発見はほんの一部の発見だと分かっているけれど、そこで解明されたことには一定の原理や傾向を見出す。と同時に、それこそ盲信しないようにもしている。データを出すにもその条件がかなり一方的なものだったりすることはよくあるし、実証されたデータを審議する機関があるとはいえ、それでもやっぱり一定の条件での話で、私たちに当てはまることなのかどうかは注意深くしていないと、私たちは簡単に操作されてしまうから。

とはいえ、科学で祈りが健康に有効だというデータが出されたり、私たちが地球という一つの有機体だという発想が出てきたり、宇宙がただのホログラムだという説が出てきたりすると、本当に面白いなと思う。科学が人間に都合のいいようにだけではなく、真実がどこか探求していることに興味を覚える。もしそんなことが実証されたら(されないと思うけど・(笑))、みんな世界をどう考えたらいいのか、脳内混線してしまうことだろう。

解明できないことを受け入れる

科学での探求は面白いけれど、すべての解明は無理だ。だって、私たちはこの世界に入ってしまっているから。例えば、私たちが作られた蟻ハウスに住んでいるありんこだとしましょう。私たちは、一生懸命家を掃除し、子どもを産み、餌を運び、反映させ、運営させる。自分の世界にを一生懸命やる。この部屋はどんな感じで、こうやって餌を運ぶのが効率がいいか、子どもが病気にならないようにするにはこうするとか、考えるかもしれない。でも、それだけだ。蟻ハウスの家を作った人のことについて考えないし、蟻ハウスを眺めている人とその人の世界のことなんて、いくら想像力が豊かでも絶対に分からない。

私たちの世界を作った存在がいるとすれば、その存在は私たちの世界のことを解明できるし理解できるだろう。でも、私たちはそのハウスの中にしかいないのだ。ハウスの一部については解明できても、外から眺められない限りハウスのすべては解明できない。私が話しているのは、地球から出たらわかるとかいう話ではなくて、地球も宇宙も含めた、この世界をつくったものがあるかもしれないと、私たちは考えたこともないよね? という話をしている。7次元とか8次元がどんな世界になっているのか、イメージすらできない私たちに、この世界の外がどうなっているのか、蟻ハウスを作ったものの存在のことを理解することはできない。

人生を立体的にするために、霊性もありにする

解明できないから、証明できないから、神様はいないのか? 魂は存在しないのか? 神様がいないことも、魂がないことだって証明されないけれど。

長々と書いてきたが、もう、スピ嫌いはいいじゃん、だって、どっちも証明できないのだから、と私は思う。スピ系盲信組やいろんやタイプの宗教が存在することは分かっているけれど、彼らを責めても何も解決しないよ、彼らが焦点をずらすのを赦してあげてよと思うのだ。カルトの犯罪を怖がって霊性をまるごと否定するのは過剰反応が過ぎている。そこにエネルギー使うくらいなら、実は結構関心を持っている自分に白旗振って、今をよりよくするために、安全を確かめながら、本質に迫ることにしませんか?

「人は土から離れては生きられられないのよ!」

これは天空の城ラピュタでシータが大地と離れて浮かぶラピュタの言い伝えからのセリフだが、なんだか、こんな感じがぴったりくるのだ。私たちは霊性の軸なしに生きられない。別に宗教でなくていいのだ。カルトも必要ないし、ニューエイジでもスピ系でなくていい。霊性はそれらと同じではない。だから、怖がらなくても大丈夫なのだ。あなたは自分がOKしない限り誰にもコントロールされないし、あなた自身がちゃんとそれにNOと言える。

霊性はあなたを支える。人為的にあなたを操作することはない。あなたが根無し草にならないように。切れた凧にならないようにあなたの心を支える。あなたの軸になり、あなたの拠りどころになる。

あなたが自分自身の感覚で、大事だと直感するものだけを大切にしていっていい。だから、怖がらずに、足を踏み入れて大丈夫。その世界を仮にでも受け入れることで、あなたの生きる世界は飛躍的に立体的になっていく。試してみる価値はある。
そうは思いませんか?

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