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毒親を赦すことで起こること

親からの支配を受けて育った

 もう、感覚的には、遙かかなた昔のように思えて、鮮明には思い出せないのだけれど(事実、真理の視点から見るとそんな出来事ははじめから起こっていなかったのだけれど)、私は大好きな両親から精神的な虐待を受けていた。

 時にはしつけと称して暴力的指導もあったし、日々行われる嫌みも横行していた。もともと薄かった親との愛着は、小学校2年生辺りで完全になくなり、そこからは、過度なしつけと、過干渉、支配とコントロール、抑圧、が主に親から受けるものだった。小さな頃から心を通わせることのできなかった母は、私の見張りと言いつけ係のような状態だった。今思い出すと、やっぱりちょっとドキドキする。そんな中で子どもがどう生き抜いてきたのだろうと、自分のことながら考えると、そんなこと無理じゃない? と思う自分がいる。どうやって過ごしていたのだろう。

 まあ、結局は私はその抑圧に耐え、時折反抗し、反撃に遭い、頭をフリーズさせ、傷つき続けながらも、あることをきっかけに19歳で家を飛び出した。我ながら、賢明な判断だったと今でも思っている。あれ以上支配されたら、私は完全に抜け殻になるしか方法がなかったと思うし、計画されたようなベストタイミングだったと思う。

心を育ててからの関係

 両親とはその時一旦断絶し、長い年月をかけて、折り合いをつけ、妥協し、そこから私自身の心をうんと育てる時期に入ったことで、その数年後、母と本心からの和解にこぎ着ける出来事が起こった。今思っても、それは愛による奇跡のようなことで、そこから母とはマイナスを修復するのではなく、構築していくような関係になった。

 父とはドラマチックな展開はなかったが、私自身が両親との過去に、ほとんど引きずられなくなったことで、次第に上手に関係を築けるようになった。彼の言葉を額面通り受け取らなくなったこともある。「この発言は、こういうことが言いたいのね」と広い心で理解することで、彼の矢のような言葉は、愛のある言葉に変わっていくのだ。小さな子どもだった頃は難解すぎたけれど、親からのトラウマを脱ぎ捨てた今は、「なるほど、そういうことか」と、ようやく彼の意図が俯瞰できるようになったのだ。

許せない心

 私はずいぶん、彼を否定してきたと思う。自分のやり方を押しつけ、「こうでなければならない」の世界しか認めない、思うように人を動かしたい、そうしないものはもう面倒を見ない、といったやり方は、とうてい容認できるものではなかったし、ほとんどの場合、最終的にそうせざるを得ないように追い込まれるにもかかわらず、私はNOと言ってきた。そうやって自分を守るしかなかった。自分の柔らかな心を差し出せばすぐさま息の根が止まるだろうと分かっていた。私は自分の愛情を目の前で広げて見せることはできなかったのだ。だから、たとえNOを言えず従うしかなくても、怒りを抱いてイヤイヤ従い、心を開かないことでNOを表示していた。それは、きっと彼も感じていたと思う。彼に従っておけば、私の身は一応安泰なのだけれど、そこには私自身はおらず、心はじわじわと侵食されるように死んでいった。

 でも、今、改めて彼を赦そうとしてみて、分かったのだ。

 私はなぜずっとNOを言い続けてきたのかというと、YESと言うことは、彼の言動を〈許す〉ことになると思い込んできたからなのだと。それだと、私の微かな主張はゼロになってしまう。それを恐れていた。だから、彼の行為、彼のコントロール、彼の支配を〈許す〉ことに対して、私はずっと、NOと言い続けてきた。反撃が怖くて言葉にしなくても。

〈許し〉と〈赦し〉

 けれど、違ったのだ。私がするべきことは、彼の行為を許すことではなく、彼を赦すこと、つまり、彼の存在自身になんら罪がないことを認めることだったのだとはっきりと、ようやく分かった。

 私は、大きな声で、その考えに同意する。彼の存在には罪がないことを認める。「もしかしたら私は、大好きな父に、長年、〈赦し〉を与えたかったのかもしれない」と思うと、私の内面から「そうだ、そうだ」という声が湧き上がってきて、胸が苦しくなる。

 〈許し〉は許可を与えること。〈赦し〉は罪がないことを認めること。

 私の大好きな父。その彼から受けた悲しい出来事に、あまりにショックを受けて、彼の行為を許せなくなってしまっていたけれど、私はいつでも、彼の存在を赦したいと願ってきたのだ。

NOと言うことは存在を否定することではない

 〈許し〉と〈赦し〉を私は混同していたし、私たちの中にも、きっとそんな拮抗する思いに挟まれて、葛藤している人もいるはずだ。苦悩は葛藤から生まれるのだから。

 私たちは相手を赦すことができる。相手も自分自身も、その存在に、なんら罪がないことは事実だ。だからそれを認めていいのだ。一方で、相手の言動を許可するかどうかは、赦すこととは違うことだ。あなたは、あなたが不快であればNOと言ってもいいのだ。それは相手を赦さないこととは、違う。

 繰り返して書こうと思う。

 あなたは相手のすることに対して、言うことに対して、許可するか許可しないかを自由に決められる。許可しなくても、相手の存在を否定したことにはならない。相手の言動にNOと言っても、相手の存在を赦すことはできる。それこそ、愛のある関係性だ。そして、相手を赦すことで、あなたも赦される。

悪夢から目覚めるチャンスはあなただからこそある

 NOを言ってもいいし、拒否してもいいことなんて、「当たり前のことじゃないか」と、傷の少ない人はもしかしたら思うかもしれない。けれども、愛する人を否定することは、本当に、とてもキツいことだ。愛と傷が一緒になって自分にやってくるとき、私たちは混乱する。年齢が小さければなおさらだ。NOというと、愛を失い、生きる方法を失うと思うと、よほどのことがない限り、選択肢がないまま許可を与えてしまう。でも、いいのだ。NOと言っても。もし自分が生きるために相手に従うしかなくても、内心NOを言っても、いいのだ。目の前の人を赦してやり、それでいて自分も赦される方法はある。実はあなたは、誰にも決して傷つけられない存在だし、「愛が欲しい」「愛が足りない」とわめいている目の前の人を赦してやれる力を持っている。

 辛酸をなめ、もう取り返しのない傷を負ったと思っている人や、日の当たる場所には立てないと思っている人が、世の中にはいる。「それすらも幻想なんだよ」と、当事者に言うのは酷だけれど、ある意味、救いにもなる。あなたの抱えている取り返しのない出来事は、ただのホログラムであり、私たちが集団で見ている幻なのだ。実際には何一つあなたは傷つけられていない。

 あなたが本当に真実が何かを知りたくなったら、それを求めていけばいい。苦悩を経験したあなただからこそ、きっとそのチャンスが来ているのだと思う。あなたが心から望めば、ちゃんと辿れる道はすでに用意されている。苦しい夢から醒めて、本来の自分として、あなたの愛をふんだんに使ったしあわせな人生を送るのに、今もまったく手遅れではないのだ。

 私でさえ、その幻想から抜け出せたのだ。あなたにも、できる。

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