非常口

甘いモナコへ逃げよう

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犯したいほど憎い 1.5

 自分が小説を書かなくても生きていける人間なのだと周野才斗が受け入れるまで、そう長い時間は要らなかった。  表現をしないことに我慢ならない人種が世の中にはいるという物語に憧れていた。戦火の中、数秒後にその原稿が焼かれる運命だとしても文を綴る。読んでくれる人はいなくても、部屋に原稿を積み上げる。作家はそういう生き物なのだとまだ心の何処かで信じてはいて、それ故に才斗は自身は作家ではなかったのだと認めていた。  これはこれで前向きな態度であるつもりだった。  周野才斗は作家ではない

    • お題小説「正装」

       正装した父を見た覚えがない。  遺影を見ている内に、はたと気づいた。黒い枠の中で父が着ていたのはワインレッドのセーターで「お父さんはいつもこれを着ていたな」「だからいつ撮った写真なのかもよく分からないな」と思い返している内に「そういえば」と思い至ったのだ。わたしの記憶に残っている父の姿の中に、セーターとTシャツ、作業服以外のものがない。あとは精々、最後の半年を過ごしていた病院での病衣か。  親戚がそんなに多くない家とはいえ、家族で冠婚葬祭の場に出ることがなかったわけではない

      • お題小説「夜寝て朝に起きる男と朝に寝て夜に起きる女」

         キスをする時間くらいは作れるはずだけれど、それすら随分とご無沙汰だった。  俺がベッドに入る時に真紀はいない。深夜を回った頃にようやく布団に潜り込んできて、俺が目覚める朝には熟睡している。俺は起こさないように抜け出して、朝食を真紀の分まで作って、食べて、出勤する。帰ってきたくらいには真紀はもう出勤している。二分の一の確率で夕食が作ってある。  コンロに火をつけて固まりかけていたスープの脂を溶かしながら、これは本当に同棲なんだろうかとふと思う。同じ空間を分け合ってはいても、そ

        • お題小説「ぼくだけが知っている」

           総合体育館は、駐輪場の時点でなんだか喧しく感じられた。ただでさえキャパシティを超えている中、好き勝手にとめられているものだから誰もいないっていうのに既に肩身が狭い。見つけた隙間にどうにかママチャリの鼻先を突っ込みいれたが、ぼく自身までくだらない雑踏の一員になったみたいで嫌だった。  館内に入るといよいよで、メインアリーナに近づくごとに足取りが重くなる。それでも進んで、分厚い防音扉を開けた。途端、熱気と歓声に体を打たれる。  だだっ広い空間中に音が響いている。はじめに爆音とし

        犯したいほど憎い 1.5

          愛でぬりつぶしていきたい

           市川沙央の『ハンチバック』の話から始めたいのです。  第169回芥川賞受賞作。恐らくはこの記事を読む大体の人が知っていて、大体の人が読んでいない作品だと思います。まあ、芥川賞作品なんて大抵はそんなものといえばそんなものでしょう。  介護付きグループホームで暮らす、難病の中年女性を主人公にした小説です。人工呼吸器を手放せない。歩くことすらままならない。寝たきりでいることすら辛い。  そうした女性を主人公にしたこと、そして、その主人公が著者である市川さん自身のプロフィールと重

          愛でぬりつぶしていきたい

          お題小説「バームクーヘンエンド」

           拍手の音を背に受けながらザ・サンシャインラブのメンバーがステージから控室へ戻ってきた。  ライヴの手応えは誰よりもバンド自身が把握しているものだ。自分たちの力を思う存分発揮できたのなら、たとえ客が誰一人いなくても良いライヴだったと感じる。ザ・サンシャインラブは良い演奏ができたらしい。メンバーのいずれも、達成感に満ちた笑顔を浮かべていた。  俺が労いの言葉をかけると、ボーカルが「凄かったよ」と汗を散らした。 「ソールドアウトってのは聞いてたけど迫力が違うね」 「それは良かった

          お題小説「バームクーヘンエンド」

          お題小説「帰り路に寄った飯屋で女子高生と相席する事になってしまったサラリーマン」

           街灯に吸い寄せられる羽虫のように入ったマクドナルドだった。  いつになく遅い退勤になってしまい疲弊していたのだろう。夕食をどこで済まそうかと思いながら歩いている間に会社の最寄り駅まで着いてしまい、途中で降りてあの店へ行こうかと思いを巡らせている内に次の停車駅は自宅の最寄り駅だとアナウンスを聞いた。  大人しく家に帰って買い置きのカップヌードルでも食べようかと考えながら俺は地下鉄を降りて、エスカレーターを上がった。地上改札を出て雨が降っているのを見て気が変わった。傘を持ってき

          お題小説「帰り路に寄った飯屋で女子高生と相席する事になってしまったサラリーマン」

          らぶりー④(終)

           ドライブの日から一週間、オミからの連絡はなかった。  こちらから送らないから返ってこないのだ、とスマートフォンのスリープモードを解除して、何度も指を泳がせて、再び画面が暗くなるまで待つことを繰り返した。言葉を探しているわけではなかったし、ましてや言うべきことが分かっているわけでは決してなかった。それをするたびに胸のあたりで走る鈍い痛みのようなものを求めての自傷行為でしかない。  想いを言葉にできないのならば直接行動すればいいのだとは思うのだが、マイの足は動かない。正確に言え

          らぶりー④(終)

          らぶりー③

           オミの方から誘ってきたドライブだった。車を出すというので、持っているのかと聞いたら友達から借りると返された。マイとしてはオミが車の免許を取っているということ自体がなんとなく意外なくらいだった。 「どのへんに行くの?」 「まあ、任せてよ」  スマートフォン越しに聞こえてきたオミの声は、いつもと大して変わらない調子ではあったが、言葉の中身としては珍しく頼りなさよりも強引さのようなものが強かったのでこれも意外と感じる。とはいえど深掘りはせず、マイは了解とだけ返した。サプライズを仕

          らぶりー③

          らぶりー②

          『つまり、ナンパされたってこと?』  ハルの葬式から数日後、ことの次第をエリコに話したところ、まずそう言われた。例の如くLINEでの会話だったが、今回は画面越しにエリコの表情がはっきりと見える気がする。 『そういうことかもしれない』  マイは自分でも発見したような気分だった。言われてみればそうだ。見ず知らずの人間に声をかけられ、連絡先を交換した。そうか、これはナンパだ。そう思うとマイは不思議に愉快な気持ちになった。感覚としては、ナンパされたという感触は一切ない。事象としてそう

          らぶりー②

          らぶりー①

           まるであてつけだよね、とエリコはLINEでマイへ言ってきた。ハルとナミの葬儀についてだ。 『日取りをバッティングさせるなんてさ』  マイが『色々あったらしいね、なんか』と応じるとエリコは『両方と友達って人はどうしろと』と息巻く。 『まあ、あたしはナミの方かな』  チャット画面に表示されたエリコの一言はなんだか、ハンバーガーのセットについてAとBどちらを頼むかでも決めているみたいだった。文章は書き手の感情をいまいち伝えてくれない時がある。こっちも同じように軽薄だと思われている

          らぶりー①

          あの神文字書きが、犯したいほど憎いんだ 第十七話「天賀再⑦…」

           ポカーン!  口を開けてしまった。  何度も参加しているイベントだから、ここに来るまで、来てからもしばらくはだいたい、いつも通りだった。スーツケースに売り物を詰めて(ほんとは、ちゃんと申し込みをすれば、わざわざ家から運ばなくても自分の席に配達してくれるサービスがあるんだけど、いつも気がつくと申し込み期限を過ぎてしまっている)いつもの乗換駅で降りて、いつもの会場に来て、いつも通り準備して……  なのに、今、いつも通りじゃない光景が再の目の前に広がっている。  机の上に何も載っ

          あの神文字書きが、犯したいほど憎いんだ 第十七話「天賀再⑦…」

          あの神文字書きが、犯したいほど憎いんだ 第十六話「間野賢也④」

           まあ、言ってしまえば出来心だった。 (という言い方も変か)  別に、間野は法律を破ったというわけでもない。万引きでとっ捕まった時の決まり文句のようなものを言う意味はない。しかし、ああいうの、実際に出来心だったって言って許してもらえることなんてあるのかね。なら仕方ないと無罪放免されるパターンもあるのかな?  ともかく、間野の中に後ろめたい心があるのは確かだ。ちょっとした気持ちでやっちゃったことに、少し後悔している。  何が言いたいのかというと、つまりは、〈文学人〉を買ってしま

          あの神文字書きが、犯したいほど憎いんだ 第十六話「間野賢也④」

          あの神文字書きが、犯したいほど憎いんだ 第十五話「天賀再⑥」

           ぐおん。  再の頭の中で、何かが暴れている。回っている。  何か、ってなんだよ、と思うのだけど、名づけられそうになかった。不安に近い。後悔にも近い。でも、ちょっとワクワクしているかも。わからない。全然わからない。ぐおん。ぐおおん。ぐおおおおん。  今、ここには相変わらずなんにもない。  汚い部屋。夜。いつ開けたのか覚えてない、チビチビ食べてるポテチの袋。そん中に入ってる湿気たポテチ。  でも、ひとつだけ違う。意味があるものがある。  ぐおおおおおおおおおん。  頭の中のそれ

          あの神文字書きが、犯したいほど憎いんだ 第十五話「天賀再⑥」

          あの神文字書きが、犯したいほど憎いんだ 第十四話「間野賢也③」

          「あれ? 周野、今回書いてないの?」  〈未来埠頭〉を手に取った柏木がそう言ったのを聞いて、間野の体がビクッと跳ねた。多分、言われた周野よりも早く反応した。超高速で反応した。  おそるおそる、周野の方を見る。 「書いてないよ」  彼は、呆れたようにため息を吐いてからそう答えた。  予想に反して、澄ました顔をしていたので間野はちょっとホッとする。 (地雷判定……セーフ!)  麗らかな放課後の部室だった。  放課後といっても、普通に五限がある時間帯だが、文芸サークルに入るような人

          あの神文字書きが、犯したいほど憎いんだ 第十四話「間野賢也③」

          あの神文字書きが、犯したいほど憎いんだ 第十三話「長瀬瑠美」

          「なあ、長瀬。ーー」 飲み干したアイスコーヒーのグラスから顔を上げないまま、虚と言っても良いくらいに温度の感じられない声で 「もし、小説を書くのならどういう風に書く」 と、周野才斗は聞いた。 温度が感じられないのは声だけではなく、彼の顔色からして、今日は薄白く見えた。普段からして色素の薄い肌の男で、長瀬瑠美は講義で購読した文章に白磁のようなという比喩があったときに、大袈裟だと自分で苦笑しながらも才斗の艶やかな頬を思い浮かべたほどだが、しかし、その白さは健康的な輝きであった筈で

          あの神文字書きが、犯したいほど憎いんだ 第十三話「長瀬瑠美」