ファッションはアートに成り得るか?

ファッションの人間は、「ファッションはアートだ」と語ることがある。

アート側の人間からそんな言葉を聞いた記憶がない。

ファッションはアートに成り得るか?

これからのファッションは何を目指すべきか考えたときに、多分アート的なものを目指さなくてはいけないのではないかも思う。

アートとファッションの決定的な違いは何か。

それは価値観の違いだと私は思う。

村上隆の美術手帖か何かに「歴史に残るものを作らなきゃいけないので」というような言葉があった。

アートの目指すものは時代の消費に耐え抜き、過去の遺物として遺る必要がある。

ファッションという言葉は、「流行」という意味を持つ。

流行は言葉通り流れ行くものであるし、世界の状況に引き摺られ、景気がよくなればスカート丈は短くなるだの、不景気になればスカート丈は長くなるだの言われ、きな臭くなればコンサバになり、女性が強くなればいかり肩になったりと、常に移りゆくものだ。

鷲田清一は「モードの迷宮」の中で、そういうファッションの反復運動のようなものを解き明かそうとしていた。

ファッションの面白さは、そういう留まらなさでもあり、その留まらなさの根源は何かと言えば「人間は飽きる生き物」だからだろう。

そして、ファッションと呼ばれるものが衣類を指すのは、衣類が人間の身に纏うもの、身に纏うことがその人自身の表明や、表現であることで、それは意識や無意識が留まらずに流動し、そしてそれぞれ個人が個々の動きをしつつ、同時に同調してうねりとなって動きを見せる、それがファッションということだ。

だからファッションはアートには成り得ない。

もし、不変的な価値を持つ服を作るには、歴史上の人物が着る、政治的意味を持つなど、権威の後ろ盾を要するだろう。

しかし、アート的なものを作る、アート的な意識を持つことは出来るだろう。

世界的な歴史には遺らなかったとしても、個々人の所有の中で歴史的に遺るものを目指すことは出来ると思うし、それを目指す必要が、現在あるのではないかと思う。

消費されて、遺らない服を作ること、それは資本主義の現代には、生き残るために必要な側面ではあるが、ファッションというのは、極端な反復運動をするものだから、遺る服を作る重要性は、消費し、捨てられれば捨てられるほどに出てくるだろう。

私はもともと教育大の美術科を出たせいか、アートの考えの方がしっくり来るところがあり、ファッションの刹那感は些か受付けないところがある。

ただ、私自身の気質として、非常に飽き性という点ではファッションとの親和性が高い。

自分のブランド、レタルというのは、アートの文脈を引っ張る必要があるのではないかと思うし、白いシャツという主題を繰り返し作り続けるというのは、アート的とも言える。

次また展示会をやるつもりだけど、それは服を着ることから切り離してもいいかなと考えている。

どういうことかと言えば、この世には服を着るのではなく観るのが好きな層というのがいると私は思っていて、着なくても観られる展示会があってもいいと思うし、着たり、買ったりしなくてもいい層を取り込んで、マネタイズしていくかも考えたいと思っている。

例えば展覧会のように入場料を取るとか。

マネタイズは継続していくために必ず考えなくてはいけない部分だが、既存のアパレルのように、着るために買うお客以外の層も取り込む動きをしていくことが、これからのファッションになるのではないかと考える。

何故ならクローゼットにはもう着られないくらいの服がいっぱいある人も沢山いるからだ。

自分としては、どうにかアプローチを考えていきたい。

※画像は今制作中の新作『私は海を抱きしめていたい』です。

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ヒグチトモミ(白いシャツの店レタルデザイナー)

パタンナー/デザイナー/美術非常勤講師/ライターとアルバイトもしつつ、白いシャツの店レタルを2011年5月より立ち上げ、細々と続けています。服を作っていく中で、身体とは、性とは、自意識とは、他者とは、を考えてきました。30歳のときにADD(不注意優勢型)が発覚しております。

ヒグチトモミのつれづれ日記

白いシャツの店レタルのデザイナーでありオーナーであるヒグチトモミのつれづれ日記。
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