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電子マネーを造った人々(5)マイノリティ・リポート

『かくして電子マネー革命はソニーから楽天に引き継がれた』を読むシリーズ。第5章では、電子マネーのルール作りの歴史が語られる。本文に入る前に、その時代の様子を振り返ってみよう。

ECOMからECOMへ、そしてECOM

電子マネーの姿が浮かび上がった1990年代後半には、はやくも規制の話が持ち上がっていた。新しい技術の規制というのは、常にイノベーションの促進と利用者の保護の妥協点を探る作業である。

この頃、電子商取引に関連するあらゆる議論が行われていた場所の一つが、ECOM(読み:イーコム)という組織であった。設立当初の名称は、電子商取引実証推進協議会(ECOM)であったが、電子商取引推進協議会(ECOM)となり、さらに、次世代電子商取引推進協議会(ECOM)となった。略称を変更することなく、正式名称が変遷した例である。

ECOMは2010年に解散しているが、次世代電子商取引推進協議会(ECOM)の時代と、電子商取引推進協議会(ECOM)の時代の報告書の一部は、現在もアーカイブとして公開されている。

その一冊を取り出してみよう。

『モバイル電子決済のビジネスモデルと技術的要件』

ECOMアーカイブ

2002年3月に刊行された報告書は、モバイル電子決済を中心とした論点について考察している。前提として、プリペイド電子マネーの状況を概観しており、2001年に登場したばかりの電子マネーEdyにも言及している。

この報告書を編纂したワーキング・グループでは、モバイル電子決済のあらゆる可能性が議論された。そこには、電子マネーという技術に対して、知見と期待を持ち合わせたメンバーが集まっていた。FeliCaという日本製の技術に、誰もが可能性を感じていた。

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未来の技術だと思われていた電子マネーが、現実のものとなった最初の時代であった。必然的に、ルール作りに関する議論も具体性を帯びてきた。

それ以前は、電子マネーの規制を検討するといっても、標準的な電子マネーというのが、どのようなデバイスを使って、どういった主体が発行するものであるのか、見当もつかなかった。登場人物と舞台道具が確定しなければ、規制の対象となる行為や主体を定義することは難しい。

ようやく登場したFeliCa電子マネーは、非接触ICカードが定番のデバイスとなることを予感させた。だがこの時点では、電子マネーが異なる姿に発展する可能性も残されていた。さらに数年の時を経て、FeliCaが日本の電子マネーの姿として定着したその頃に、法規制の議論は本格的に始動する。

小泉さんがお呼びです。

図書『かくして電子マネー革命はソニーから楽天に引き継がれた』には、その頃の逸話が紹介されている。2005年のある日、宮沢さんは財務省から突然の電話を受ける。「小泉さんがお呼びです。」との呼び出しに、「小泉さんって、どなたですか?」と思わず聞き返したところ、当時の首相からのご質問だったというのだ。

あわてて駆け付けると、通された部屋には、残念ながら首相のお姿はなかった。名代として、大臣官房の調査官の方から質問を尋ねられたという。だが、これをきっかけに、政府の研究会などに委員として委嘱されるようになり、電子マネーのルール作りに積極的にかかわっていく。

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宮沢さんがこだわり続けたのは、お金の匿名性を守ることである。その原点となったのは、一本の映画であった。

2002年の映画『マイノリティ・レポート』。主人公が住む未来の世界では、網膜認証システムによって個人が捕捉されており、街中のどこにいても確実に追跡される。そして、行動履歴に基づいてカスタマイズされた広告が、ホログラムの映像として歩いている人の眼前に浮かび上がる。

そのような未来がディストピアであると考えた宮沢さんは、現金と同じような匿名性に近い感覚で利用できる電子マネーの実現を目指すようになる。

法律二分の妙案

激論の末に宮沢さんが繰り出した妙案とは、「送金」と「商品・サービスの購入」という、目的が異なるサービスを無理に一つにはせず、法律を二分するという策であった。この流れは、現在にまで繋がっている。

著書には、霞が関における奮闘の様子が描かれている。こうした努力のかいもあって、現在のような電子マネーの姿が出来上がったと思うと感慨深いものがある。

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Photos by H.Okada in Hong Kong

だが、霞が関での奮闘にもかかわらず、電子マネープロジェクトは袋小路に迷い込んだかのように、厳しい時期を迎えていた。

そしてEdyの物語は結末へと向かう。

(つづく)