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運・技術・知識

ジャレド・ダイヤモンド的表記。自分の属するイデオロギーを表明する雑感的なやつ。


自分の力で勝ったのではないぞ

そのデッキの性能のおかげだということを忘れるな。

例えばネオーボーナスでレリックを交換したらピラミッドが出たとして、使っているキャラがウォッチャーだとしよう。

Q、それでも続けるか? A、もちろん♡

Slay the spireは運だらけのゲームだ。出てくるカードも、レリックの順番も、どのボスが出るかも、デッキの順番も、全てにランダム性が絡んでいる。これは福音であり、無数に生成され遊び尽くせない多様なシチュエーションでプレイすることができる。逆の見方をすればシードの数値と勝敗に対する相関があるのではと疑いたくなる。ともすれば、決定論的に全てが決まっているという主張も完全には否定できないだろう。

選択

占術1を行う。カードを引く。…ではなく、このゲームは大量の3択で構成されている。プレイヤーはゲーム内に明確に提示されているだけで50回はこの選択肢に答える。その全てに、最適解が存在する。

ここでいう最適解とは勝率を最大化するものを指す。勝率とはシードによるその後の展開が離散分布として存在し各シチュエーションに対して受けるダメージの期待値などがこれまた定義でき各カードを選んだ際に生きるか死ぬかの差異が出るシチュエーションによって統計的に定義できる何かだ。

つまる、起こりうる各事象に対して総合的にどれが最も良く対処できるかという観点で選択肢に優劣が生じる。プレイヤーは見えている情報の集合Aを条件とし、選択肢iを選ぶ条件付き確率P(i|A)によってゲームに関わっているとも言える。いささかAI的だがそもそもニューラルネットワークは人間の神経構造をもしているので我々はすべからくAI的なのだ。思考とはこのAI的判断を効率的に調教する後付けのツールにすぎない。

当然この判断基準が異なるプレイヤーはゲームから異なる応答を得る。有意に勝ちやすいプレイヤー/勝ちにくいプレイヤーが存在することは自明といえる。

このゲームにおいてはどのシードが出るかが全てのランダム要素を支配している。つまりシードがその後の展開をある程度決めていて、上で述べた判断(或いは反射)はその中で良さそうなものを取得するアプローチである。

これによって誘導される一つの考え方に、「運の比重」をなるべく下げたい。というものがある。判断の良し悪しに対しゲーム側は勝敗という形で点数をつけてくれる。正確にはbinaryな、二者択一な正誤判断を下す。運要素があると判断の良し悪しがこの正誤にどれだけ影響を与えられるのか?という疑念が上の主張を生む。ここはもう感覚的としかいえない。

これに対するアンサーはある程度あった方がいいというものになる。何故なら人は正誤判断では満足できず点数が欲しくなる。つまり判断の正しさがグラデーション的に、より正確に評価されることを望む。だから勝率とか連勝数に目をつける。そこで決め打ちでない、より創発的な判断の発揮場所として多様なシチュエーションの荒野を、その征服を望む。何千時間もプレイされるような、所謂リプレイ性の高いゲームはほとんどがこの性質を持ち、そしてハードコアな難易度が存在する。

運要素が強いことは何回もやればあまり上手くなくてもハードコア難易度をクリアーしたという、一つの○を与えてくれることでもある。

運要素は強すぎてもガチャだが、低すぎてもゲームをパズル問題集に落とし込んでしまう。

技術と知識

判断…と上では一括りにしているが、細分化するとこの二つだろう。前者の違いはやはり確率の話題、決定的かそうでないかだ。

例えば、心臓直前のショップでレリックが3つ並んでいるとする。トゲ、瓶詰めの炎(詰めたいものなし)、ケミカルX…まずトゲだ。この3つからどれかを買うならまずトゲだろう。これは心臓に対して有効であるという知識によるもので、それによって解答がほぼ決定的なレベルに絞られている。

正解を知っているかいないかで、知っていれば誰でも選ぶ…という場合は純粋な知識の領分だ。これはそのままでは属人性を持たない。しかしその多寡という意味で人の間に違いを作る。

ここでいう技術とは上に述べた判断から知識を確率的という観点で分離させたものを指す。P(i|A)のパラメータは属人性を持つ、運要素により知識のみで先の状況を100%読みきれない以上どうしてもアプローチは確率的になる。(8割でAが正解、2割でB、Cは0%という場合、最も正解しやすいのはA、B、Cの選択する確率を正答率と一致させることだ。)

誰もがなんとなくで判断している部分がある、そのなんとなくは当人の基準に属している。知識や試行回数で調教していき、向上するなにかは対象であるゲームのランダム性を母体にしている。

一定よりランダム性が低いともう全部の正解を暗記させてしまっても良い。難しいことに見えるが小分けされたシチュエーションを全部決定論的に解いていくだけだ。そうでないゲームでも同じことをしているように見えるが、それは解き方を正解に近づけるアプローチでしかなく本当にたどり着くことはほぼない。

slay the spireは

簡単な難易度はほぼ100%でクリアーでき、難しい難易度は100回に1回の差を追うに足りるグラデーションを与えてくれる。深みと懐の広さを両立しているので今日も誰かが遊んでいるのだろう。そう信じている。

最初に例に出したウォッチャーは…開拓によって…なその領域からパズルに行ってしまった気がするが…まあそういうこともある。



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