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9羽「3カ国目・中国・China4」

陽だまりの中、ソファに深く座って足を投げ出し、「ほげーっ」とする気持のいい朝。

3日前、爆弾でも爆発したかのように破壊しつくされたホテルを怒りのままに飛び出したことがうそのような、穏やかな日々。

そんな12月に入ったばかりの昼下がり。
僕は中国の雲南省・大理にいました。

そしてここは大理の中の旧市街「大理古城」にある、「太陽島」。

「太陽島」は日本人が雇われ店主をつとめる、いわゆる日本人宿といわれる日本人貧乏旅行者たちのたまり場のような宿だった。

雇われ店主のシンタロウさん。御年30歳。

ディジュリドゥ吹きのトミーさん。この方も御年30歳。

同室に泊まるタクさん。みんな30歳!なんか同級生みたい。

香港を出て、約1週間ぶりに会った日本人。いままで20年間日本人に囲まれて生きてきた人間が、1週間中国人に囲まれると、もう日本人に会えただけでとてもうれしくなってしまう。ここの人たちはみな年上(というか旅路で会う人のほとんどは年上だった)だけど、やさしく気のいい人たちばかりだった。

石畳のある古い町並み。すこし歩けば、見晴らしのいい山々。そしてなにより日本人宿「太陽島」がある大理古城を、僕はとても気に入ってしまいました。


大理古城では、ときどき町中が停電します。このときは3日間停電が続きました。それでも、ここにはバリケードどころかリュックに鍵をかける気にもなれないほどの安心感がありました。

日本を出て10日経ち、僕はようやく旅を楽しいと思えた。
この通り、写真もたくさん撮っている。
そしてそんな風に感じる人間は僕だけではないようで。

半年も1年もいる旅行者のことを「沈没者」というらしく、この大理古城はまさしく旅行者の沈没地だった。宿の店主であるシンタロウさんやトミーさんも、大理が気に入って居ついてしまった元・旅行者とのことでした。

彼らは店主や店員ではあったけど、実際のところは完全にプータローで、ちゃらんぽらんで、ダメダメな人たちだった。毎晩のようにパーティーをしては大音量で音楽を流し、踊り、中国人から「うるせー!!」と怒鳴られても意に介さず、結局警察を呼ばれるか朝日を拝むまで踊り続けるパーリーピーポーだった。警察がきてびっくりする僕をみて、「なんかわかんないだけど、よく来るんだよね。」とフォローのつもりで言ったのでしょうが、僕は余計びっくりしてしまった。中国人にうるさいと言われる日本人は、後にも先にもここでしか会ったことがない。

12月に入って高地にある大理はとても寒かったけど、人はあたたかく、朝から食うアツアツの小龍包は格別にうまく、紙パックではなく袋に入って売られている牛乳は甘く、僕はこの町から、この先も旅を続けていく元気を与えてもらいました。

いまもまだ「太陽島」はあるんだろうか。

あの人たちはまだ大理にいるんだろうか。いないとしたら、どこでなにをしているのだろうか。どこにいてもいいしなにをしてもしてなくてもいいから、ただ元気でいてほしい。そう願わずにはいられない人たちでした。

大理に大きな荷物を預け、中国の最終目的地にして唯一の目的地、「麗江」へ。

大理古城もよかったけれど、麗江はさらに輪をかけて美しかった。

チベットに近づいていくにつれ、民族衣装に身を包む少数民族の人たちが増えていった。人あたりもどんどん柔らかくなった。

麗江は世界遺産にも登録されている有名な観光地なので土産屋や飲食店も多く、夜は町中が灯りに照らされ、昼とはまったく違う顔をのぞかせます。


麗江で自転車を借り、郊外の村にもでかけた。小さい村の人たちはあまり写真を好まない人が多かったので、残念ながら写真には残っていません。先日テレビを見ていたら、麗江の郊外の村で「子犬だと思って育てていたら熊だった。」というニュースをやっていました。山で拾った熊を犬だと思って育て、途中で熊と気付いても誰に報告することもなく、どこかの誰かにネットで通報されるまで飼い続けた村人。森林局が没収したとき熊は80kgにまで成長していたらしいです。荒い画像に映る村の風景は10年前と大きく変わった様子はなく、安心しました。ダメと言われるまで熊と生活してしまう村人たちの暮らしも、あの素朴な景色も、どうかそのままであってほしい。というのはただの一旅行者のわがままなので、ここで願うだけに留めたい。

そして僕は大理にもどり、太陽島のみんなにお別れを告げ、南へ行くバスに乗りました。

大理と麗江に来なければ、僕はもう中国なんてコリゴリだ!いいことなんてなにもなかった!と思っていたと思います。

ありがとう大理。ありがとう麗江。ありがとう太陽島。

もうきっとなにもかもが変わってしまっているのだろうけど、それでも僕はまたいつか訪れたい。あの「助かった。」という気持ちを、思い出しに行きたい。誰も彼も、なにもかもがなくなってしまっていたとしても。

そんな思いを胸に、深夜バスに揺られ、国境を目指し南へ。

ラオスへ向かいました。

つづく

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