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5羽 「2カ国目・マカオ ・Macau」

香港に着いた翌朝、すぐにマカオに行った。

まだ香港をなにも見ていないのにどうしていきなりマカオに行こうと思ったのか、それはよくわかりません。

香港でなにを見たらいいのかわからなかったのかもしれないし、気持ちのいい快晴の日に、ただ船に乗ってみたかっただけなのかもしれない。マカオはパスポートこそ必要なものの、フェリーに乗って1時間もすれば着いてしまう別の国。それだけで僕の興味をひく材料はそろっていた。

20HK$の朝飯を食べ、7.90HK$のウーロン茶を飲み、133HK$のチケットを買い、僕はフェリーに乗った。当時のHK$(香港ドル)レートは1HK$ 16円。

レートというものは日々変動するので、もしあなたが旅行記をつけたいと思うならなににいくら使ったのかだけではなく、レートも書いておいたほうがいい。ちなみにいまのレートは1HK$=13.5円。10年経ってもそんなに変わってませんね。

フェリーを降りて3番の市バスに乗り、「セナド広場」という観光名所へ。

マカオはポルトガルの植民地だったため町並みには西洋文化が色濃く残っていて、特にセナド広場はヨーロッパ色の強い景色がひろがっていました。石畳とカラフルな建物。屋台で売ってた牛乳プリンとエッグタルトを食べながら、広場を抜けて丘の方へ歩く。城塞の跡が残る丘の下には、焼け落ちて崩れた天主堂がある。大勢の観光客がそれを囲んでいる。エッグタルトの味を口の中に残しながら、盛大に崩れて張りぼてみたいになった天主堂を眺めていると、僕はなぜだか来てはいけないところに来て、食べてはいけないものを食べ、見てはいけないものを見ているような気になりました。

どうしてそんな気持ちになったのか、当時はよくわかりませんでした。いま思うにそれはきっと、「植民地の名残」というものをはじめて見たからでしょう。

観光名所と言われる場所はどこもヨーロッパ調だったり教会の名残だったけれど、一歩路地を入ればやはりここはアジアなのだ。と思いださせる人、建物、風景がある。まるでマカオという中華の上にヨーロッパというメッキが施され、こびりつき、もうこの先ずっと拭えないようになってしまった。目の前の景色を無意識にそう見てとり、気持ち悪く感じてしまったのだと思います。

マカオの町並みをそんな風にみていたから、牛乳プリンとエッグタルトの舌に残る甘ささえ、苦々しく感じてしまっていました。

1887年、アヘン戦争で大英帝国が勝利したことをいいことにポルトガルは清を追い出し、マカオを植民地にしてしまった。当時の僕はガイドブックかなにかで読んだこんな一文しか知らなかったから、エッグタルトをおいしく食べられなかったのは仕方がない。僕は少々潔癖だったうえに、無知だった。

マカオが植民地化される300年も前の1513年には、ポルトガル人はすでに渡来していた。1557年には正式に居住権も得ていた。別にいきなりやってきて、イギリスの侵略のおこぼれに預かったわけじゃない。植民地化はとても残酷な行為だし、王だか政府だか上の一部の人間が私欲で決めたところも大いにあっただろうけど、300年のうちにマカオで生まれ、マカオで死んだポルトガル人だっていたはずだ。華人とポルトガル人の混血、「マカオエンサ」と言われる人だって少数だけど、いまもいる。そんな市民たちにとってはこのマカオは間違いなく母国で、メッキで塗りかえられた歴史ではなく、自分たちが生き積み重ねた歴史であり、風景である。植民地支配は嫌悪しても、その後に残ったものまで、つまならないものを見るような目でみる必要はない。

いまならそんな風に考えることもできる。それはベトナムやモロッコなど、かつて植民地支配を受けていた国々を訪れていくなかで、現地の人と会い、話し、感じ、教わった視点でした。いまだって無知とたいして変わりはしないけれど、自分は無知だったんだなぁと知ることができました。

うまいものはうまいうまい、と言いながら食べればいい。
まじめくさった考えや偏った正義感は、カジノリスボアでチップと一緒にすってしまえばいい。世の中泡と消えた方がいい金があるように、なくなってもいい行き過ぎた正義感もある。

いまなら16HK$の牛乳プリンも、6HK$のエッグタルトも、おいしく食べられる気がする。

ジョニー・トー作品のファンにもなってるから、ロケ地巡りも楽しみです。

次にいくときは、ちゃんとマカオを見に行こう。


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