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スシが食べたい。語られなかった背景

スシが食べたい。言い続けていれば叶うもので、どれくらい寿司をおごってもらっただろうか。一時期はあらゆるメディアで「スシが食べたい」と表明していた結果、Googleで「寿司 食べたい」と検索するとトップに表示されていた。福岡のITコミュニティ内でも「スシが食べたい人」「スシの人」と認識されるようになった。スシが食べたい欲を突き詰めれば仕事にもつながる。Twitterで「寿司が食べられる話がありますよ」と誘われて前職のベンチャー企業に就職した。その流れでいまの人生があるのだから、スシが食べたい力というのはあなどれない。

年収が800万円を超えたあたりから寿司が止まって見えるという都市伝説がある。寿司にもいろいろあるのだけど、僕が好きなのはひと皿100円の回転寿司だ。100円(税別)で2貫の寿司を食べることができる。あまり量を食べるほうではないので千円もあれば満足だ。千円で実質食べ放題状態。そして邪道とも言える創作寿司はいまのところハズレがない。寿司屋なのにフライドポテトやコーヒーをウリにしていて、たしかにおいしい。ラーメンやうどんも食べられる。子どもを連れて行けば、寿司は新幹線に乗ってくるし、空いた皿でガチャガチャができる。回転寿司屋に来ると、寿司とはエンターテイメントだということを思い出す。

ここからが本題。寿司がどれだけ優れたエンターテイメントだとしても、Googleの検索結果のトップに載り、寿司がきっかけで就職する人はまれだろう。僕がなぜこれほど「スシが食べたい」のか。どれくらいの人が気づいているかわからないが、僕は文章を書くときに「寿司」と「スシ」を使い分けている。料理の一形態として表現するときにはふつうに「寿司」を使う。一方「スシ」と書くときには、料理としてではなくて食べているシチュエーションまで含めてイメージしている。しあわせそうにテーブルを囲んでいる様子を表現を思い浮かべてもらうといいだろう。

中学生くらいだったと記憶しているが、誕生日や進学などのお祝いに回転寿司に連れて行ってもらうようになった。実家のある熊本は回転寿司の激戦区で、交差点のはす向かいに回転寿司屋があったり、車で5分の間隔で回転寿司屋が並んでいたりする。両親が回転寿司でお祝いをしようと考えたのは自然なことだったのだと思う。お祝いのたびに家族で寿司を食べるという恒例行事は僕が就職して実家を離れてからも続いた。そういうことを繰り返していると、スーパーのセールで買った寿司をひとりで食べるときであっても、食べるたびにしあわせな家族団らんの雰囲気が脳裏によみがえるようになった。

結婚して子どもが生まれ自分の家庭を持ってからも、お祝いのたびに回転寿司屋へ出かけている。幼い子どもたちは生ものを食べられなかったのだけど、それでも回転寿司に連れて行くとよろこんだ。両親は息子にしてくれたように孫たちのお祝いに寿司を食べさせてくれていた。あるときから代金を僕が支払うようにした。これからは両親へのお返しの時期だ。やっと大人になれた気がした。そうやって僕ら親子孫3世代はスシとともにあった。スシとはしあわせであり、しあわせとはスシなのだ。こうして僕の「スシが食べたい」人生は形づくられた。僕が「スシが食べたい」というときには「しあわせになりたい」と置きかえてもらってもかまわない。

起業して1年が経つころ。1年目のテーマは「生き残る」だった。ふたりだったメンバーが3人になって生き残ったので、達成率は150パーセントだ。創業者ふたりで回らない寿司を食べに行った。前半は刺身や魚介料理、後半に寿司。「やばい」「うまい」を連発しながら食べて「生き残れたね」「おつかれさま」とねぎらい合った。寿司は何貫食べたのだろう。お会計は回転寿司100皿分を軽く超えたけれども、自分たちで稼いだお金でスシを食べるという行為には値段のつけられない価値がある気がした。先日、2年目も生き残って同じ寿司屋で同じような時を過ごした。しあわせな家族のイメージに加えて、仲間と生存をよろこび合うこの感覚。スシもまた僕の人生とともにその姿を変えていく。スシが僕の人生を形づくり、僕の人生がスシを形づくる。それはともかく、スシが食べたい。

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