子育ての不都合な真実、認知的不協和

なんのために子育てをしているのだろう?ふと疑問に思うことがあるのだけど、こういった疑問は口に出してはいけないような暗黙の圧力を感じる。僕は実際のところ、なぜ子育てをしているのか説明することができない。天気のよい休日。公園で遊んでいる夫婦と幼い子ども。しあわせそうに見えるのだけど、本当にそうだろうかと疑ってしまう自分がいる。家に帰れば、いやいや期の子どもにヒステリックな母親、見て見ぬふりをする父親。まあ、しあわせというのは継続した状態を指すのではなく、山や谷があって均したときにおおむねしあわせであれば、しあわでだと言ってさしつかえないのだと思う。そのしあわせのために子育てをしているのだろうか。子どもがいなかったら、しあわせではなかったのだろうか。

子育ては大変だ。それは真実ではあるのだけど、大変さをアピールしていると、自己責任だろうと責められたりもする。子どもを産み育てると選択した自分の責任だと。しかし多くの人の場合、子育てを経験する前に子育ての大変さを知ることはできない。思い描いていた日々とは違っていたと感じることは多いと思う。核家族化が進んで、子育ての現場を知ることなく親になる人は増えていることだろう。前述の公園のしあわせそうな家族を見て、子どものいるしあわせな日々を想像する。けれども、その裏側を目の当たりにすることはない。そんな状況で自己責任だと言うにはあまりに乱暴ではないだろうか。彼ら/彼女らは想定と違った子育てを、それでも懸命に遂行しようとしているのだ。そんななかで、大変だと言いづらい空気は息苦しいものがある。

とくに父親の育児参加という文脈で言われることが多いのだけど「子育てはすばらしい経験だ」「子育ては貴重な経験だ」というある種の主観の押しつけがある。だから父親も育児参加すべきだという論調だ。しかし父親が子育てをするのは、母親の負担を「限界まで」下げるという目的であってもいいと思う。すばらしい経験をしていると感じる必要はない。そもそも大変な子育てをしている人が「子育てはすばらしい」と言うのは「認知的不協和」を解消するためじゃないだろうか。つまり子育ては理不尽で苦しいものだと認知しているが、一方で放り出すことができないものとも認知している場合、このふたつの認知に不協和が生じる。そこで「子育ては大変だけどもすばらしい」と認知することで、この不協和を解消しようとするのだ。つまり子育てのすばらしさを説いている人が本当にそう思っているのかというと、そこには疑いの余地があり、実際には苦しい思いをしている可能性が大いにあると考えている。

さて、冒頭の質問を自分に投げかけてみる。なんのために子育てをしているのか。僕は人生や生きることに意味はないと考えていて、子育てについてもそこに意味を持たせるようなことはしていない。ただ育てているだけ。親の常識は子どもの常識ではないから、僕の常識を押しつけるつもりはなく、子どもたちは自分で納得のいく人生を送ればいいと思う。一方で、わが子を育てる最適な人間は自分だと考えているので、いまのところは育児を放棄するつもりはない。いかにストレスなく生きるかを追求しているのだけど、子育てをしているとどうしてもストレスはたまる。子育ては大変だ。ここで「子育ては大変だけれど放棄できない」という認知的不協和が生じる。そこで僕は「ひとり親だけど自由に生きている」というアピールをすることで不協和を解消しているのだ。

現在の日本では子どもを産まないというのが正解だ。合理的に考えると、そういう結論になると思っている。実際、子どもを産まない選択をしている人は多く、彼ら/彼女らを責めることはできない。だからといって自分に子どもがいることを後悔したことは一度もない。子どもがいてもいなくても、しあわせな時もあればそうでないときもあって、おおむねしあわせであればそれでいいと思うのだ。そのときに、本当はしあわせじゃなくて自分がそう認知しているだけなのではないか、などと考える必要はないように思う。僕は生きているだけでしんどいタイプの人間なので、脳が不協和を無意識に解消しようとするならば、それに任せてしまいたい。再度冒頭の「なんのために子育てをしているか」に戻るとすると、しあわせのためということでもいいのかもしれない。もちろん、子育てはしあわせだとか、子育てはすばらしい経験だとか、それは人には押しつけるものではないということだけ心にとめておきたいのだけど。

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