情熱不要論、淡々と生きることについて

生まれつき情熱というものがない。やりたいことといえば、細かいことはいくらかあるにはある。しかしそれに情熱を注いでいるかというと、それほどではない。人生なりなんなりをかけて取り組みたいことがまったく思いつかない。そもそもシングルファーザーというのはエネルギーが慢性的に枯渇気味の状態で生きている。情熱を持ってなにかに取り組む余裕などない。エネルギーを温存しておかなければならないので、情熱などで消費してはならないのだ。

死ぬ気でやれよ。と、ものすごい情熱を持った人がいた。著書も人気があったようで、情熱のおすそ分けをしてもらった人も多いかもしれない。あるとき、その人の友だちから近況を聞く機会があった。死ぬ気でやった結果、若くして死んでしまったのだそうだ。なんだかんだ言っても、無理をすれば人は死ぬ。情熱でなんとかなるのは少年マンガの中だけだ。ひとり親は死ねないし、動けなくなることも避けたい。情熱を持って燃え尽きるよりは、淡々と日々をやりすごすのが、わが子のためだ。

情熱を持たずにものごとに取り組むためには、かわりになにがあればいいだろうか。必要なのは、楽しむことだと思う。情熱を持って困難を乗り越えるのではなくて、そもそも困難を困難だと思わないこと。そんな生き方が理想だ。僕の場合は、プログラミング。高い壁にぶち当たることもあるけれど、そんな壁を乗り越えようとしている間は不眠不休でプログラムを書いていても平気でいられる。けれども、情熱を持ってプログラミングに取り組んだことはない。蝶を追う少年の話。ある少年がとても高い山を登って大人たちを驚かせるのだけど、その少年はただ目の前の蝶を追っていただけだった。情熱はなくとも、高いところに到達することはできる。

その一方で、情熱を持っている人をうらやましいと思う気持ちもある。僕のように飄々とした人間からすると、情熱のある人が魅力的に見えたりもする。そういうときには、情熱のある人の手伝いをするという生き方もあると思う。まわりが見えないくらい熱くなっている人を、ちょっと冷めた人がサポートすればうまくいくんじゃないだろうか。前職のベンチャー企業に参加することにしたのには、そういう思いもあった。情熱がないことは悪いことではない。自分の役割を意識して淡々とやっていければ、それでいい。

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