多様性を許容するということ、その戦いについて

父子家庭の子どもだからといって、かわいそうだということはないと思う。わが子たちを見ていて感じる。元気はつらつ、自由奔放。ひとり親家庭に対して夫婦がそろった家庭のことを「ふつうの家庭」と表現しないようにしている。いろいろな形の家庭が存在していい。どの家庭のあり方がしあわせかなんて決められないし、それぞれの環境でそれぞれのしあわせの形があるのだと思う。

ひと昔に比べると多様性が受け入れられやすい社会になっているように感じる。ひとり親だからという偏見もないし、精神科や心療内科に通っていても特別な目で見られることはない。もちろん地域性だとかまわりにいる人たちによっては違っているのだろうけど、それでも昔に比べれば社会全体として多様な生き方をすることが許容されやすくなっていると思う。娘の通う中学校は全国に先駆けてLGBTに配慮した制服を導入することになっている。それから、リモートワークや時短勤務などのいろいろな働き方も増えてきた。

意識的に多様性を受け入れるようにしている。偏見というのは子どものころから植え付けられた根強いもので、僕も「ふつうでない」人を偏見の目で見てしまうことは多くある。ただ気をつけているのは、そこで脊髄反射を起こさないこと。こういう人もいるんだ。こういう考え方もあるんだ。時間を置いてただただありのままを受け入れる。そのうえで自分とは合わないと感じることもある。それはそれで構わないと思っている。ただ、「ふつうではない」から合わないのではなくて、お互いの「ふつう」の重なり合うところがないというだけだ。

多様性を許容するということは、相手のことを理解するということではない。そもそも自分とまったく違う人を完全に理解することは不可能だと考えている。理解できないけれどもその違いを受け入れるという心持ちこそが、多様性を許容するということだと思う。多様性を許容すると決めた僕らにとっての最大の壁は、多様性を許容しない人たちをも許容する必要があるということだ。これはある種の戦いでもある。

基本的に戦いを避けて生きている。ひとり親の生きる目標は生き残ることであり、無用な戦いは避けるのが望ましい。それでも社会によって生かされている僕は、自分の家族以外にもしあわせに暮らしてほしい。それには多様性の許容が必要で、多様性を守るためには戦わなければならないときもあるだろう。この戦いには多くの人に参加してもらいたい。自分がマイノリティになるということは当然のようにある。明日はわが身だ。多様性を許容するということは、自分自身を守るということにもつながると思う。

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