シングルファーザーのクリエイティブ子育て論

シングルファーザーのクリエイティブ子育て論

「パパ、なんで怒らないの!?」振り返った長女が驚いて父親の顔を見上げる。子どもたちが輪になって買ってもらったばかりのオモチャを分解しているのに出くわしたところだ。いや、そんなことで怒ったりはしないし、むしろもっとやれと思う。いつもそんな具合だ。パパに怒られるからという子どもたち。そんなことはないから好きなようにしなさいと言う。クリエイティブであること。もしかしたら幸せであることよりも前に、僕が子どもたちに望むことなのかもしれない。

今の自分をクリエイターと呼ぶには抵抗がある。クリエイトしていない時期が続いている。毎日「ふつうの」生活を送ることにエネルギーを注いでいる。それでもとがったクリエイターをネットで追いかけては刺激を受け、何かを生み出すことのすばらしさを感じている。自分自身、以前は主にプログラミングのスキルを使っていろいろなものを生み出してた。その喜びと楽しみは知っている。創作活動中は食事をとらなくても平気だし、睡眠も必要ない。この楽しさを子どもたちにも伝えたい。

クリエイティブというと何だかフワッとした言葉のように感じる。けれどもそれを定義することには興味がない。昔から「世界観」という概念が好きで、世界の境界は主観的で曖昧なものだと思っている。クリエイティブな世界観で生きていると感じることが重要なのだ。子どもたちがその世界で自由に生きていくためにはどうすればいいのだろうか。

将来は予測できない。常にそれを前提とした思考をしている。ラーメン屋で替玉を注文する。食べる。後悔する。したがって将来は予測できない。証明終了。予測できないから現時点で何が正しいのかは判断がつかない。子どもたちに対して「ダメ」と言うことが少ないのはそれが理由だ。同じように「〜でなければならない」「〜しなければならない」という言い方もしない。僕らの世代の常識は、子どもの世代ではすでに常識ではなくなっているだろう。実際に僕ら自身も親の世代との常識のギャップに悩まされることも少なくない。

真っ白な紙にゼロから絵を描ける力というのがクリエイティブであることの条件のひとつであるように思う。多くの人が制約がある状態を嫌がるのだろうけど、制約に従うというのは実は楽なことだ。もしも制約が一切なければ、そこに絵を描くというのは意外と難しい。そういう意味でも、子どもは生まれつきクリエイティブなのだと思う。つまり大切なのは、いかにクリエイティブに育てるかではなくて、本来備わっているクリエイティビティを阻害しないということになる。

だから、子どもたちに古い常識をすり込みたくはない。そう考えると下手に「ダメ」とは言えなくなる。例えば日本では白米を異常に大切にする。粗末にすると反感を買う。もちろん僕もその文化圏で育っているので、食べもを粗末にすることは許し難い。そんな時には子どもたちを注意する。ただ、ご飯を残してはいけないというのは行き過ぎている。ラーメンのスープは残せというのとも矛盾する。食べることもままならない貧困な人々がいるのは確かだけど、今ここで無理して食べることで彼らが救われるわけではない。最初から自分のキャパをわきまえて食事の量を調整すればいいというのは、子どもが小さいうちは親の責任だろう。

食べ物で遊ぶということも必ずしも粗末にしているとは限らない。世界のクリエイティブなシェフの料理というのも、見ようによっては食べ物で遊んでいるようにも見える。最近では液体窒素を使った料理もあるらしい。既成概念を破壊することは遊びと見分けがつかない。子どもが食べ物で遊んでいるように見える時に、脊髄反射的に叱るのではなくて見極めるということが必要なのだと思う。子どものすることすべてを許容しようということではない。一瞬の時間をとって見極めるという行為が大切になのではないだろうか。

子どもたちの行動を許容するかどうかの基準というのはどこにあるのだろうか。回復可能かどうかというのはポイントになりそうな気がする。後々残る怪我をするというのは防ぐべきだけど、手や服が汚れるというのはどうにでもなる。賃貸住宅の敷金は帰ってこないものと考えているので、壁に落書きをされても問題ない。リビングで習字も水彩もやる。外出すれば地面に寝転がるし、噴水に近づけばびしょ濡れになる。そういうことは全部許容範囲だ。まわりで見ているだけのよその子を気にすることなく土や水にまみれるわが子たち。

「ダメ」だと言わずに子どもの好きにさせるというのはストレスが溜まりそうだけれど、これは完全に逆だと思っている。いったん「ダメ」だと口にすると、子どもが従わない時にすごくストレスが溜まる。だんだん語気が荒くなり、ついには手を出してしまいそうになる。いったん親の要求が通ると、次も通そうとしてしまう。子どもはそう簡単にはコントロールできない。ストレスが溜まる。世の中のママさんたちを見ていると、そうやってイライラしている人が非常に多い印象を受ける。本当に問題のある行動なのかどうか判断して「ダメ」を必要最小限に抑えることでよけいなストレスを溜めずに済む。それにピンポイントで「ダメ」と口にすると、子どもたちへの抑止効果がより高くなる。

ひとり親の最大の敵はストレスだ。普段は県外の実家には頼れない。僕がストレスで動けなくなるとわが家は終わる。だからいかにストレスを溜めないかということに注力している。将来は予測できない。何が正解かは判断できない。今現在のあるがままを受け入れる。子どもたちをコントロールしようとしてストレスを溜めない。これは僕の子ども3人を育てるシングルファーザーとしてのサバイバル思考法だ。生き残ること。そのために最適化された思考法。それがたまたま子どもたちのクリエイティビティを阻害しないということにつながっているようだ。

こうして自由に育った子どもたち。友人たちにはとにかく元気な三姉妹という印象を与え続けている。元気なのはいいのだけど、最近は口が悪くなってきたのでそれを注意することが多くなった。「他人に迷惑をかけるな」というのは嘘だと考えているので、そういう言い方をすることはない。けれども、自分の言動で嫌な思いをする人がいるというのはよくない。しゃべり方については細かく注意するようにしていて、それが最近の課題になっている。他人に迷惑をかけてしまうことがあるのは仕方がない。まわりの人が嫌な思いをしないように注意を払う。人はひとりでは生きていけないのだから。

自由にさせるというのは決して放任するということではない。必要なことは観察することだと思う。子どもが何かした時に脊髄反射を起こすのではなく、じっくりと観察し、そして考える。常識に反しているように見えても、それは誰の常識だろうか、いつの時代の常識だろうか。それに人の怒りの感情は6秒間しか続かないという。そうして観察している間に突発的な腹立たしさは消える。あとは本当によくない行動であれば、自分のテンションをコントロールしつつ諭す。もちろん常に冷静であろうとする僕の態度が本当に正しいのかどうかはわからないのだけど。

自分にはちょっとしたミニマリスト気質みたいなものがあって、家の中の物は少ない方だと思う。それにも関わらず散らかっている子ども部屋。そこは子どもたちの聖域として手を出さないでいる。子ども部屋は散らかっている方がクリエイティブに育つという話もある。そんなクリエイティブな部屋からガラクタを集めて家の外に持ち出そうとする子どもたち。ガラクタの路上販売をするらしい。まあ、頑張って。と子どもたちを見送る。玄関のチェーンロックには名探偵コナンの密室トリックを再現するためのセロテープが貼りついたままだった。

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