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たみさんの御針箱 (にぎやかな静寂)

 正月に両親や妹夫婦たちと寄った。思い出話に花が咲いた。
 この歳になると子どもたちの進級など成長にともなう話の他には、これといって未来に開いた話題もない。
 健康で平穏な一年であって欲しいということ以外に大きな願いもないから、自然とあの時はどうだった、あんなことがあったねぇと昔を懐かしむ話が中心となる。

 思い出話のなかに初めて聞く話があった。半分は忘れていたというべきか。
 母方の祖母たみさんとぼくにまつわる話である。
 母の母、たみさんが鬼籍に入って二十年あまりになる。たみさんが亡くなったのは、ぼくが三十代の初めでまだ独身の頃だった。
 昔、母の実家は同じ市内にあって、ぼくは小学生のときから自転車に乗ってひとりでも遊びに行っていた。
 その田舎づくりの小さな家は、市街地を少し外れたところに山裾に抱かれるように在った。
 そこでは山や畑を思い切り駆けまわって遊ぶことができたし、小学校や町中とはまた違った面白さと安らぎがあった。
 たみさんは子どものように小柄で少し腰が曲がっていて、日本の田舎の優しいお婆さんを絵に描いたような人だった。そして辛いことも悲しいこともけして表に出さずにいつも静かに笑っているような人だった。
 山の頂には弁天様が祀られている寺院があり、そこに至る山道にはたくさんの小さな祠があった。たみさんは時間があると竹箒を持って石段や山道を掃いていた。
 ぼくがいまでもお地蔵さまや祠の前を通るときに必ず頭を下げるのは、たみさんがそうしていたからだ。
 神さまや仏さまの前では、こちらの願いばかりを言うのではなく「いつもありがとうございます」とまずはお礼を言うのだということも、たみさんを見て自然に覚えた。
 安全や健康を願うときには、自分以外の人のことが先で、自分はいちばん後だということも。
 ぼくは言葉ではなく、たみさんの自然な姿を通してそれらを覚えた。当のたみさんには、ぼくに何かを教えているという感覚、ましてや躾けや教育といった意識はなかったと思う。

 中学高校と進むうちに母の実家に遊びに行く機会は減り、いつしかたみさんとは一年に数回顔を合わせるだけになってしまった。
 ぼくがたみさんの存在をふたたび強く意識したのは、実はたみさんが亡くなって、この世からいなくなってしまってからだった。
 社会に出ると当然のように悩みや辛いこと大変なことが次々と出てくる。
 そんなとき、ぼくはふと気づくと無意識のうちにたみさんに助けを乞うていた。お祖母ちゃんどうかお守りください、と。
 どうにもしんどくなったときには、夜、布団に横になったあと、目を閉じて、空想の自転車をいまは無い山裾の小さな家に走らせた。するとぼくが子どもの頃に見たのと同じ姿のたみさんが、畑仕事の手を休めて「よう来たね」と迎えてくれた。ぼくは空想と夢の合間で、生きている人間には晒すことのできない泣き言を聞いてもらう。
 たみさんはいつも無条件にぼくの味方であり、優しく励ましてくれた。
 そうすることでぼくは翌朝「よしっ」と起き上がることができたのである。
 
 考えてみれば何やら不思議な話ではあるが、人と人との絆には関係性や年齢の差や生死をも越えたものもあるのだろう、と思うことがある。
 とはいえ、なにもオカルトめいた話ではなく、兄弟や親戚のなかでも不思議と馬の合う特定の人物がいる、といった範疇の話にすぎないともいえるし、すでに亡くなった人も現在を生きる人間の心のなかにともに生きているという感覚は、誰しも思い当たることであろう。
 ただこうした思いは五十歳を過ぎたいま、より強いものとなってきている。

 

 たみさんが亡くなったあと、数少ない遺品でもある御針箱の一番上の引き出しから、奇麗に畳まれて半紙に包まれた二枚の旧い千円札が出てきたという。
「はじめちゃんは働き出して初めて給料を貰ろたときに、わたしにお小遣いをくれはったんやで」
 たみさんは生前、折に触れては母に嬉しそうにそう話していたらしい。
———ここに仕舞っておいたんかいな。
 それを見つけた母は涙を流したという。

 初めて聞く話だった。というより、お小遣いをあげた(「あげた」という表現自体、恐縮至極ではあるが)ということすら完全に忘れていた。さらに言えば今もって思い出せずにいる。
 こうなると、十八歳のやんちゃ坊主でしかなかった過去の自分に「グッジョブ」と言いたいくらいである。

「お祖母ちゃん、あんたから貰ったお金、死ぬまで使わずに大事に残しとかったんやな」
 と言う母の言葉に、思わず鼻の奥が熱くなった。

 たみさんの御針箱は現在母が大切に使っている。

 
 
 

 
 
 
 

 

 
 


 

 
 

 

 

 
 
 
 

 
 

 

 

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