ことばのちから:1進数論

『若き老覇王のことば』


対義語とは交義語のことである。

すべての言葉は現実で交差する。 

例えば、善の地平には善しかなく、
天の地平には天しかない。

しかし、それらすべての (ウッ)
単語、概念、単位、次元、地平、数直線の交わる場が

現場(今ここ)である。


現物もイデアもクオリアも唯識も涅槃も頽落も友愛も、

今ここに、他(私)と交わって表れたがために現れたのだ。 (ガフッ)


別場の地から、飛来したそれを私の器官が受容して応答している。

ゆえに知性とは知的な器官である。(ムッ)

仏性が仏を受け収める器官であるように。(イッ)


それらは必要に応じて発現し、顕現する。

遺伝子(DNA)がそうであり、素粒子がそうであるように。


もともとあるのではなく、もともとないわけでもない。 (ウック)

折に触れて、必要に応じて、

それ(地平)を知覚する器官がわれわれの内に発現するのだ。


これこそが「知る」ということ。

これすなわち、智慧の大綱。 (スッ)


だから要は、順序が大切なのだ。

大切というか、否応なく肝要なのだ。

肝要というか、順序しかないのだ。


遠回りは遠くないのだ。

曲がりものは曲がっていないのだ。

それにはそれしかないのだ。 (ッ)



あなたがこれを読むことは、
あなたがこれを書いたのと同じことなのだ。

私がかれを読むことは、
私がそれを書いたのと同じことなのだ。


私という地平にある起伏はすべて私だ。

あなたという地平にある鬱屈もすべてあなただ。


王という言葉を知る者の内で、王でない者はない。

民という言葉を知る者の内で、民でない者はない。

悟りという言葉を知ること、それ自体が覚醒であり、

聖霊という言葉を知ること、それ自体が霊化なのだ。


言葉を知って(その地平と交差して)、

それに触れて(その地平と交差したことを知って)、

それに思いを馳せて(知って知ってまた知って)、

それに染まらないことがどうして可能であろうか。


私という地平において、

「私」を含むすべての語は私の対義語であり、

対義でない言葉など存在しない。


ゆえに、私はその度重なる交差の激烈な衝撃によって、

私の輪郭を「はっきりと」知り得るのであるが、

しかし、知り得た輪郭というのは、

より明瞭になるにつれて崩れ、いびつになり、 (ガフッ)

ついには跡形もなくなり、他の私を砕いて回る塵芥になる。


子細な私が私を叩いて廻る。

廻り巡って、私は中くらいの私と出会い、大きな私になり、また砕ける。

おそらく、それが「知りたがりな」私の子細であろう。



もちろん、知りたがらない私(地平)も私の中にはいる。

いるにはいるのだが、知られたがらない私と知りたがらない私が仲睦まじく結託して、私をのけ者にするから、それならばと、

私は知られたがりの私と、私をエンジョイするのだ。 


それでも、仮に一方的にでも私が私の裏側を見捨てない限り、

私が私と離れることはないと信じてやまない。


覇王の裏側は、そうだな、、年老いた覇王かな。


後半、言葉の大礫(激しい衝突)が少なくなったのは、
さては、私も随分と削れて小さくなっているのか、、


私の尺度は私(私の地平)が「1」

だから、縮んでも「1」、肥大しても「1」。

寝転んでも「1」、昇天しても「1」。

砕け散る寸前までそれは変わらなし、

崩壊後もきっと「1」のままだろう。


その地平にはそれしかない。

だから、いくら寂しくても、苦しくても、楽しくても

それはそれの内なんだよ。  


(ゴスッ)




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