小説「感情論」

 不快な羽音を立てながら、私の周りを大量のが舞っている。夥しい数だ。いつの間にこんな増えたのだろう?
「蚊というのは嫌なものですね」と、私は隣の男に話しかけた。
「そうですね」と、男は素っ気なく答えた。
 円形の壁に取り囲まれている、殺風景な部屋に私達はいた。壁や床は金属で出来ており、とても人が暮らすような環境ではない。が、ずっと前から、私はここで蚊を叩き潰し続けている気がする。

 部屋の中にはがあった。直径 10 センチ程度の、いわゆる普通の缶詰に使われるようなサイズだ。それが台座の上に乗っている。ラベルなどはないが、見覚えがある。私はかつてこれを手に入れるために大きな苦労をし、それなりの喜びとともにこれを手に入れたような気がする。しかし、今となっては、それは見知らぬ、グロテスクな物体のように見えた。
「なんだっけな、この缶」
「お忘れになったのですか。あなたが作ってくださったのですよ」
「そうだったかな」
「はい、お連れ様とお二人で」

幹事

「そういえば、あなたは誰なのですか?」
 私は隣にいる男に尋ねることにした。
「誰、と言われましても……」
 男は決まりが悪そうに続けた。
「そうですね、この『缶』を維持する存在と、でも言いましょうか」
「維持?」
 それは、缶のような物体に対する言葉としては、やや不適切に思えた。
「不思議な言葉を使いますね」
「はい、新しく缶を作っていただかないと、この場を維持できないので」
 先程から、男の返事は要領を得ない。困惑する私を尻目に男は続ける。
「缶は場であり、場は缶である、そういうことです」
「よくわからないが、そういうイベントとか儀式のようなものかね」
「そう考えていただいても構いません」
「では、あなたは幹事なのか」
「そう考えていただいても構いません」

緩徐

「私はいつからこうしていたんだろうな」
 何度となく蚊を叩き潰しながら私はこぼした。
「さあ、なんせ、蚊というのは苦しいものですからね」
「何を当たり前のことを」
「そうではないのです、苦しくなるように、私が仕向けたのですから」
「馬鹿なことを。あなたが私をコントロールしているとでもいうのか」
「それは少し正確ではないですね。私は単に設定をしているだけです」
 私は幹事のことを、少し頭のおかしい男ではないかと思い始めた。その様子が伝わったのか、幹事は意地悪な様子でこう続けた。
「そういえば、昔程、蚊を不快に思わなくなっているのではないですか」
「それは慣れというものだろう」
 しかし、言われてみれば、昔はもっと蚊に対して過敏に反応していた気がする。
「いえ、あなたの体は、もうそのはたらきを緩徐に失いつつあるのですよ。その必要がなくなったのですから」
「必要?」
「はい、缶を作っていただければ、もう他のことはあまり意味がないので」
「どういうことだ。蚊と缶にどういう関係があるんだ」
「そうでもしないと缶を作っていただけませんからね」

勘定 

「そろそろ勘定の時間です」
「勘定?」
「何も苦しみを感じなくなります」
「それが勘定なのか?」
「はい、缶ができた時から、いずれはそうなることが決まっています」
 幹事はそこまで言うと、はっとした感じで言い直した。
「すいません、この『缶』は、私達の周りの缶のことですね」
「周りの缶?」
 そこで私は改めて部屋の周りを見回した。
「これは巨大な缶の中なのか?」
「大きさにあまり意味はありませんが、そうとも言えます」

環状路

 私は再び、部屋の中央にある缶を指さしながら言った。
「では缶の中には、何があるんだ」
「ここと同じような世界があります」
「何を言っているんだ」
「あなたと似たような存在がいます」
「お前と似た存在もいるのか?」
「いえ、私はその中に移動します」
「『私は』?」
「はい、あなたは残念ながら、このまま蚊に埋め尽くされて消えてなくなることになります」
「お前はその後、何をするんだ」
「また、別の方に缶を作ってもらいます」
「強制するのか」
「そうなるように設定しているだけです」
「解釈はどうでもいい。それからは?」
「その缶の先の世界で、また缶を作ってもらいます」
「最終的にはどうなんだ。缶を作り続けたその先に、何があるんだ」
「さあ……とにかく私は、缶を作り続けてもらうしか」 
 私は頭が痛くなってきた。この幹事の説明が正しければ、こいつはずっと、環状路をグルグル回るような世界を繰り返しているのか。何のために?

感情論

「いい加減にしてくれないか。じゃあ、今すぐ缶作りをやめればいいじゃないか。どうせ、缶を作っても、その先で缶を作るんだろう」
「それはできません」
「なぜだ」
「どうしてもです」
「説明になっていない」
「私はそれを続けなければいけない」
 今までにない、強い口調だった。感情論に近くなっており、説得は無理そうだった。
「俺はともかく、次の缶の中にいるやつが、お前に協力するかな」
「協力してもらわなければ困ります」
 そこで、やっと幹事は冷静さを取り戻したようで、にやりと笑いながらこう言った。
「次の方も、苦しみから逃れることを夢見ながら、救いを求めて缶を作るのですよ。そのように設定しているのですから」



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