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理解できない事って、やっぱり絶対にある、と云うお話。

 哲学的なことに目覚めたのは、小学1年生のときのお別れ遠足の帰路。そのときの記憶はまたの機会に譲るとして、それからいろいろ、思索するようになりました。小学高学年の時、「この世の中で絶対的なものって、なんだろ? そんなものって、あるの?」と考えはじめました。それは、愛? 宗教? それとも金?
 数日間考えた挙げ句、逆説的にこんな仮説をひとつ立ててみました。
「絶対的なものは、この世に〈絶対〉にない」
 この仮説を証明してみれば、何か答えに近づけるような気がしたのです。しかし、そこで大きな壁にぶつかりました。自分の立てた仮説にそもそも矛盾があるのです。つまり、〈絶対的〉なものは〈絶対〉にないということ自体が、〈絶対的〉なものになってしまうのです。
 おお、そうか! じゃあ、やっぱり〈絶対的〉なものはあるんだ! それは一体何なんだろう?
 しかし、またすぐに行き詰まったのです。なぜなら、〈絶対的〉な存在であると思ったものは、ことごとくそうでもあり、またそうでもないのです。この頃はまだ二律背反という言葉を知りませんから、これは永遠に解けない謎だということで、頭の中で何重にも鍵をかけて、封印してしまいました。その理由は、自分が生きている間に、人類が宇宙の端まで行くことはできないだろうから、生きている間に解くことができない問題だって、この世にはたくさんあるだろう……と、諦めたからです。
 と、こんな愚にもつかないことを考える(妄想する)のが好きでしたから、中学、高校、大学と進むにつれて、西洋哲学を断片的に囓っていきました(大学では講義も受けました)。もちろん木田元さんの本も、何冊も読みました。
 

 しかし、これまで読んだ西洋哲学に関する本に接する前に、この1冊に出会えていたら、これほど幸福なことはなかったと思います。
 西洋哲学、日本人として絶対に理解できない、超えられない限界があると薄々感じていました。しかし、それは自分の理解力のなさ、学力のなさだと、若い頃は思っていたのです。でもやっぱり、日本人にはギリシア哲学をルーツに持つ西洋人の思考回路を、西洋人と同等には理解・享受することは不可能なのです。それを「反哲学入門」のなかで木田さんは語っています。
 若い頃は、同じ人間だから、きっと理解できるなんて高をくくっていましたが、歳を取るごとにそうでもないと思うようになりました。これは、経験則によるもの。しかし、原語でスラスラと読めるほどの語学力があったら……、もしかすると西洋哲学も100%、肌感覚で理解できるのではないだろうかとも思っていました。
 そんな最後の望みも、『反哲学入門』を読んで、絶対にない、ということが判明。もし、『反哲学入門』を最初に読んでいたら、日本人には本質的に超えられないものとして、最初から西洋哲学に接することができたのにと残念に思う反面、ギリシア語はじめ母国語以外の学習に余計な時間を割かなくてよかったという安堵も。だって、スラスラ読めても、やっぱり理解できないものなのですから。

──西洋哲学を俯瞰的に見渡せることはもちろん、いろんな意味で安心感をもらえた1冊。

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