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「 テキトー 」 と 「 ちゃんと 」

テキトー、この音。苦手だ。
私はこの半世紀近くをテキトーに生きることができないで来た。
後悔はない。だが不器用過ぎる。

だから当然、ここの更新もできていない。
週一更新目標が週二になり、週三を過ぎた今、
なんなら月一更新でいいじゃんと開き直り、
今週末には書き上げるぞというプレッシャーに
早くも足を掬われようとしている、のかもしれない。

「ちゃんと」やろうとした結果、
「ちゃんと」できなかったのだから、
「テキトー」にしてみるのもよかろ。

そんな気分になれたのは、
他の人のnoteを読んだことに依るのかもしれないし、
前回の記事以来、
藻掻き続ける自分に疲れてしまったからなのかもしれない。

私はいつも勝手にレールを敷いている気がする。
敷きながら、強いている。
恐らく自分を自分で縛る能力は人より高いと思う。
何の自慢にもならない。

テキトー、そこには人を寛容にする隙間風が吹いており、
脳内の風通しを良くする空間が広がっている。

テキトー、それは時に人との適度な距離を維持する安全装置であり、
トラブル回避に役立つ実用的な手段である。

by 日田木子

しかし私は大抵その手を採らず、
密閉している小さな箱へ閉じ籠もってしまう。
テキトーというバランス感覚を、私は扱うことができない。
と、思い込んでいるだけで、
社会人ともなれば誰でも習得可能な力でもある気もするから、
私のなかにもテキトーは少しは存在するのだろう。たぶん。

けれども私のような不器用な人間は(このことにも最近やっと気づけた)、
“意識して”テキトーという手段を扱うのは難しい。
なぜならいつのまにか自動的に本腰になり、
正面から挑んでしまうからだ。
なぜこのような肩の力ばかり入るような生き方しかできないのかわからないが、思えば両親がそういうタイプだった。暑苦しい家だなと思っていたが。
これは昭和の人間の特性なのだろうか。
(「SNSに本気にならないスタンス」が掴めない私には響いた↓)

(私の場合はLINEオープンチャットの距離感に慣れなかったのだけど)

自分自身が不器用なのだということを、
実感を伴って自覚できたのがつい最近のことなのだから、
まあ仕方がないか。

これからは「ちゃんと」、「テキトー」に、やってみよう。

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