テレビを観てたら、怒鳴られた時のこと。(2020年8月の記事)

2020年8月の記事ですが…、再公開時の設定の関係で公開日がずれています。


※※

今朝。

テレビを観てたら父がやってきて、一人でぶつぶつと何かを言いながら、突然チャンネルを変えた。

『えっ⁉』と思ったものの、父が何か話していた雰囲気から、『もしかしたら、気になる番組があって、一緒に観ようと思ったのかな?』とも思った。

そのまま一緒にテレビを観てもよかったけれど…

『私の部屋にはテレビがないけど、父の部屋にはテレビがあるよね?自分の部屋でも、同じ番組見てるよね?』と不思議に思う。

『もしかしたら、私がテレビを観てたことに気づいてないのかな?』と思い、自分が観てたことを伝えるために、「私も、沖縄のやつ(私が見てた番組)観てたんだけどね~」と母に笑いかけた。


「うるさい!!」

突然、大きな声で怒鳴られた。

胸の奥が震えて、ざわざわした。

子供の頃、こうやって父の怒鳴られるのが恐くて、人の感情に敏感になってったことを思い出した。

特に人のイライラには過敏になってしまう時があって…

高校時代には、隣の子が怒られてるのに、泣いてしまったことがある。

大学時代も、イライラした空気感が恐くて、友達同士の話し合いから逃げ出してしまったことがある。

なんだか、昔のことがよみがえりそうな、変な感覚になった。


笑ってごまかすこともできず、ひきつった顔をする私に、母が「いつものことだから」と、「お父さんはこういう人だから気にしなくていい」と小声で声をかけてくれた。

「うるさいって言ってんだろ!」

それに気づいた父が、もう1度怒鳴った。


私は『もう無理だ…』と、部屋を飛び出した。

その時に言われたのか、過去に言われたことがあることばなだけなのかわからない。

ただ廊下を歩いてる間、ずっと「お父さんは、自分のことしか考えられない人だから…」という言葉が頭の中でグルグルしてた。


部屋に戻ると、鍵をかけ、布団にもぐった。

まだ胸の奥が震えて、ざわざわしてる。…涙が出てきた。

なんだか、ここで泣くのを我慢しちゃいけないような気がして…布団にもぐったまま、声を押し殺して泣いた。

泣いてるうちに、『どうして私が我慢しなきゃいけないの?』と言葉が出てきた。幼い頃も、この時と同じように『どうして私が我慢しなきゃいけないの?』『どうして怒られなきゃいけないの?』『私が何をしたの?』と泣いてたのを思い出した。

そして、『きっと私が悪いんだ』『私は、笑っちゃいけないんだ。楽しんじゃいけないんだ。幸せになっちゃいけないんだ』と、自分が悪いのだと思ったことを思い出した。

そして、父の苦労話を聞かされ、「同じように苦学生でいなきゃいけないのだ」と、「大学に行っても、遊んだり、楽しい思いをしてはいけないのだ」と言われたことを思い出した。

『あぁ、もしかしたら、子供の頃の感情を思い出すためだったのかな?かこのことを思い出すためだったのかな?』と思ってるうちに、感情は落ち着いてきた。


子供の頃の私には、「お父さんの問題だ」と教えてくれる人はいなかったし、そこから逃げるすべはなく、我慢することしかできなかった。そんな父でも、見放されたら、私は生きていけないものだと思ってた。

でも今は、父がいなくても、自分自身で生きていける。離れるべきだと思った。

※※

こんな風に、いきなり怒鳴ってしまうのは、誰のせいなのだろうか?

父と元カレ…。私が知ってるパニック障害の2人は、こういう時に「パニック障害のせいだ」という。

そもそも、自分がいらだったり、怒鳴ってることにも気づいていなかったりする。

元カレに関しては、生霊など、霊的なもののせいにしたりもしてた。


それは本当に、パニック障害のせいなんだろうか?

それとも、霊的なものや、見えないエネルギーのせいなのだろうか?

そもそも、彼らの性格的な問題だったのだろうか?


私にはたぶん。その答えはわからない。

わからないし、『もしかして…』と心当たりがあっても、彼らがそれを受け入れるとも限らないし…それを解決しようとする必要もないのかもしれない。

彼らは私の夫でも息子でもないのだから、私がずっと一緒にいる必要もない。

やっぱり、今の私がすべきことがあるとすれば、彼らから離れることなのだと思った。


最近、『家から出なければいけない』『離れなきゃいけない』と感じることが多発してる。

もしかすると、今回のことだって、その一環かもしれない。

※※※

パニック障害につい考えていると、

子供の頃からずっと、”人のこころ”に興味があったことを思い出した。

そして、人のこころを体感したり、手に取るように感情や考え・流れがわかることも増え、”深く話すこと”を仕事にしたかったことを思い出した。

カウンセリングに興味があったものの、一般的な心理学やカウンセラーと、自分のやりたいことが異なる気がして、セラピストになったことを思い出した。

セラピストになってからも、心に触れることばかりを考えていて、体に触れながら心に触れる感覚を楽しんでいて…

お客様を癒したり、自分自身を癒すことで、私なりの”心理学の代わりになる何か”を学んでる感覚があったことを思い出した。

そして、いつの間にか、お客様やセラピスト仲間の相談に乗ることが増え、そういう時間が好きで…それをメインにしていくために、セラピストを辞めてブログを書き始めたことを思い出した。


私は、ここまで心理学に関わりすぎないようにしてきたからこそ、そろそろ、それを勉強することも考えてもいいのかなとも思った。

でも、パニック障害とか…そういうものを本格的に学んでみようとは思えなかった。

私はたぶん、父を理解したり治すためにパニック障害に興味を持ったわけではないんだと思う。

私自身を癒すために、自分のおかれた状況を理解するために、パニック障害について理解することも考えたのだと思う。


そして、もしも心理学を学んだり、精神的な問題を知っていったとしても…私は別に、『それを治してあげたい』とは思わない。

もしも、自分の内側と向き合おうとしていて、私のやりたいことと一致していれば、そういう人たちにかかわることはあると思うし、それはいいと思う。

でも、私は、自分と向き合うことを避けてる人に、何ができるとも思ってない。今のところ。


ただ私は、自分と同じように、両親が精神的なものを抱えていて、それに悩んでる人がいるなら、『そういう人のためにできることはないかな?』と思う。

ただ私は、自分が傷ついてるのに、それに気づかずに、誰かを心配してしまうような人がいるなら、そういう人の力になりたいと思う。

自分が悪いわけじゃないのに、誰かの言葉に傷ついて、自分を責めてしまう人がいるなら、声をかけたいと思う。

なんというか…私はパニック障害や鬱の人を治したいわけではなく、そういう人たちに影響されてしまってる人たちのために、『私のできることはないかな?』と思う。

自分自身が『離れる』という選択をするだけじゃなくて、それがどういうもので、どういう現状があって、そこにどういう感情があって、どれが思い込みで現実で…私が知りうるすべてのことを、過去の自分と同じ境遇にいる人たちのために活かしたいのだと思う。


抱えこむ必要のないほどの苦労を抱え込もうとしてしまってるような気がすることがある。

『違う』と違和感を感じた瞬間、本当はすぐに離れればいいのに、そこにとどまって様々な体験をしし、たくさんの感情を体感する。

誰かは、「バカだな」と笑ったり、「めんどくさい性格をしてる」なんて言う。

でも、たくさんのことを体験したいし、たくさんの感情を体感したい。そう思ってる自分がいる。

そして私はそれを、誰かのために活かしたいと思う。


『めんどくさいやつだな』って、『バカなやつだな』って思うこともあるよ。

そりゃ、『苦しい』『悲しい』『逃げたい』って思うこともあるよ。

でも、あとから思うと、心のどっかで、それを楽しんでる自分がいるような気がする瞬間がある。

何より、後から考えると、『それでよかった』と満足してる自分がいる。

だから、たぶんそれが、私の生き方なんだろうなって。

昔からね、そんなことを思う瞬間がたまにあるんだ。



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