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どんな失敗も新たな一歩となる

~発明王エジソン!ネバーギブアップ!!~


▲トーマス・エジソン

 発明王エジソンが取得した特許は、1093件にも及びます。その中で三大発明といわれているのは、「蓄音機」「電球」「映写機」です。エジソンは、子どもの頃のしょうこう熱で片耳が不自由でした。
 難聴だったエジソンは後に、自伝の中でこう述べています。「私は物音が普通に聞こえる世界から締めだされた。しかし、ばかげた会話や不用な騒音と無縁になったおかげで、実験と読書に集中できるようになった。」
 身体も丈夫ではありませんでしたが、好奇心はとても旺盛でした。「なんで風が吹くの?」「なんで魚はおぼれないの?」「なんで星は落ちないの?」小学校の先生を質問攻めにして困らせました。そのため授業が進まず、挙句には学校を経営するエングル先生から「きみの頭は腐っている」とまでいわれたそうです。
 
 学校にはもう行かないと決めたエジソンを母親のナンシーは、自ら教育することにしました。わが子の果てしない質問に、小学校の教師を1年程経験していたナンシーは根気強く丁寧に答え続けました。図書館の面白そうな本は、対象年齢に関係なく片端から読み聞かせました。ディケンズ、ユゴー、シェークスピア、シーザーの『ガリア戦記』、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』。
 そしてエジソンは9歳の時、『自然哲学の学校』という化学実験の本を読み、興味をもち、家の地下に実験室を作ってもらい、石鹸や花火を製作しました。疑問に思ったことは理解できるまで徹底的に追究しました。諦めなければ必ず答えが見つかるのだと教えた母ナンシーの教育によって、「発明王」エジソンは育くまれたのです。
 後にエジソンは、「自分が母にとって価値ある人間であることを知り、その信頼が間違いではないことを示そうと決心した。」と述べ、母は「私の性質が向いている方へすすませてくれた」と感謝しています。
 
 1861年南北戦争が勃発します。この戦争で活躍したのが、モールス信号を使った電信機です。戦況は、即座に当時の大統領で北軍を率いていたエイブラハム・リンカンに伝えられました。14歳のエジソンはこの電信機に強い興味を示します。
 当時列車内で新聞を売り歩いていたエジソンは、鉄道会社の駅長に頼んで、電信技術を教えてもらいました。電信技士として働き始めたエジソン青年は、その難聴と頑固な性格から一つの職場に長続きせず、16歳から20歳までの4年間で職場を17か所も転々としました。ゆく先々で喧嘩をしたり、生意気な態度で職場を追い出されたりするなど、アンガーマネジメントの未熟な青年でした。
 21歳になったエジソンは、当時最も学問研究の盛んだったボストンに行き、街の古本屋でマイケル・ファラデー著『電気学実験研究』という一冊の本を購入しました。この本との出会いが、発明王エジソンの行くべき道を決定づけたといっても過言ではありませんでした。ボストン時代のエジソンは、容姿には全く無頓着で、態度や言葉遣いも荒っぽかったといわれています。
 
 ファラデーのようになりたいと努力したエジソンが最初に発明した特許第一号は「電気投票記録装置」と呼ばれるものでした。議会の投票結果を新聞社に報告するという仕事をしていたエジソンは、議会の採決において、議員が一人一人声を出して賛否を告げるという方法をより効率の良い方法に変えられないかと考えました。そこで、電信の技術を応用し、議員席に設置したボタンを押すことによって、集計の手間と時間を省くというものでした。
 
 自分の有り金すべてに借金までして試作したこの装置をもって、自信満々にマサチューセッツ州議会や連邦議会へ乗り込んだエジソンでしたが、国会議員たちは口をそろえて「これは、われわれが最も必要としない装置である」といったのです。なぜなら、議会では、少数政党が投票を長引かせるよう時間稼ぎをするのも戦術の一つであり、こんな装置があるとかえって困ったからです。1台も売ることができなかったエジソンは、このことから、人々が本当に必要とする発明でなければ売れないということを悟ったのです。

 22歳になったエジソンは、ニューヨークにやってきて、世界最大の金融街ウォール・ストリートの株取引の様子を見ます。そこでは、刻一刻と変化する株価の動きを事務所から事務所へと走り回って伝える金融マンたちがいたのです。そこでエジソンは、株価チェッカー(株式相場表示機)なるものを開発します。これは株価情報を電線を使って送り、別の場所で印字するというものです。この株価チェッカーは、折からの投資ブームに乗って売れに売れたのです。

 29歳になったエジソンは、ニュージャージー州のメンロパークという丘の上に腕の立つ技術者を集めて、「10日に一つの小発明、半年に一つの大発明」を目標に掲げた研究所を建設しました。この年、あのグラハム・ベルが電話機を発明しました。しかし、それは、近距離でしか使えず、大声で話さなければ聴こえない程、性能の悪い物でした。そこで、エジソンたちは、2000種類もの物質を試しながら改良を重ね、ついに炭素を利用して音量 を増幅する方法を開発したのです。
 
 1877年12月、メンロパーク研究所では、共同制作した装置の前に座るエジソンの周りに技術者が集まっていました。エジソンは大きな筒にパラフィン紙を巻き付け、それを回転させながら、一方の振動版に向かって「ハロー」と話しかけました。そしてパラフィン紙を巻き戻し、針を置いて再び筒を回転させると、微かながらラッパ上の筒から「ハロー」という声が聞こえました。これが蓄音機第一号の原型が誕生した瞬間だったのです。
 改良を重ねたエジソンは、新聞記者たちを集め、公開実験を行いました。彼は大勢の前で蓄音機に向かって「メーリさんの羊」と歌い、それをすぐさま再生してみせたのです。会場はどよめきにつつまれ、翌日の新聞には、エジソンを「メンロパークの魔術師」と書き立てました。
 
 この時代の夜に灯りを灯してくれたのは、アーク灯やガス灯でしたが、ほとんどの家庭ではロウソクの炎に頼っていました。そんな中、多くの技術者が電球の制作に取りかかっており、すでにガラスでできた真空の球の中のフィラメントに電気を通せば電球になることは知られていました。しかし、完全な真空状態をつくるのは容易ではありませんでした。そしてさらに、熱で長い時間灯せる電球はなかなか作れず、何でフィラメントを作るかが大きな課題だったのです。
 
 この2つの課題に果敢に挑んだのがエジソンです。資金を調達するため、エジソンは「6週間もあればできるでしょう。」と新聞記者たちの前で公言しましたが、見通しはまるで立っていなかったのです。
 フィラメントには、数々の材料を試しました。炭素はすぐに溶けてしまい、ニッケルは明るすぎて、白金は価格が高すぎました。6週間はあっという間に過ぎ、1年経ってもまだ開発は続けられていました。そして13時間もの間輝き続けた「炭素化した木綿糸」にたどりついたのです。しかし、エジソンは、さらに優れたフィラメントの素材を見つけるために、西インド諸島や南アフリカ、アジアにまで足をのばし、遂に日本製の竹製フィラメントにたどり着いたのです。
 一方で、この電球に電気を送る装置がなければ意味がありません。そこでエジソンは、1882年ニューヨークに世界初の発電所を建てたのです。
電球の開発研究は、今日でもLEDなど省エネルギーなどの観点から日々続けられて進化しています。
 
 発明王・エジソンの名とともに有名なのが「天才とは、1%のひらめきと99%の努力である」という名言です。しかし、一方で「私はこれまで、偶然のひらめきで、価値ある発明をしたことなど一度もない。」とも言っています。そして確かにいえることは、エジソンは生涯を通じて「私たちの最大の弱点は諦めることにある。成功するのに最も確実な方法は、常にもう一回だけ試してみることだ。」という姿勢を貫いたからこそ発明王になれたということを肝に銘じなければならないのです。

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