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真の自由を手にいれるために①

~ヘレン・ケラーとアン・サリヴァンの努力の物語~ シリーズ➊~➍

➊野生児

 

▲ヘレン・ケラーとアン・サリヴァン

 私たちは、「自由」という言葉にあこがれます。他人から、何の束縛も受けないで、すべて自分の好きにできる。何と魅力的な言葉でしょうか。ところが、「自由」という言葉の意味を辞書で引いてみると、いま言った意味は、実は二番目の意味で、第一の意味は、「心のまま。思うまま。自在。」となっています。そこで「思うがまま。思い通りにする。」ということをもう少し掘り下げて考えてみようと思います。

 人間は生まれながらに、何でもわかり、何でもできるというような存在ではありません。幼い子どもは守られ、助けられなければ、何もできないといっても過言ではありません。それでも、生きるために必要な時だけ、必要最小限助けて、後は見守るだけにし、できる限り自由にしてあげるとします。幼い子どもを思うがまま、思いっきり自由にさせていれば、果たして本当に「自由」を手に入れることができるのでしょうか。野生的な本能や感情のままに放っておくことで、果たして自由にのびのびと育つといえるのでしょうか。

 鳥のように大空を高々と自由に飛びまわりたい。しかし、ひな鳥たちは口を大きく開け、餌を争うようにして食べます。生命力も闘争心も弱いひな鳥は、すでに巣から落ちて死ぬ運命にあるのです。無事に生きのびたとしても、巣立ちの前の鍛えなくして、鳥は大空を飛ぶことはできません。高く飛べば飛ぶほど、気流による抵抗は大きく、羽は強く強く鍛えられていくのです。また風の抵抗があるからこそ揚力が生まれ、高くも飛べるのです。

 みなさんは、ヘレン・ケラーについて詳しく知っていますか。『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』という題名の本を読んで、さらにヘレン・ケラーの生涯について調べてみました。
 
 1880年6月27日アメリカのアラバマ州の北部タスカンビヤという町の近くで、ヘレン・ケラーは誕生しました。父アーサー・ケラーは、スイスから移住したドイツ系地主の息子で、南北戦争当時は南軍の大尉、母のケイト・アダムスはイングランド系で、父アーサーより20歳も若い妻でした。この夫婦の間に生れたヘレン・ケラーは、この地方特有のツルバラやぶどうに包まれた美しい田園風景の中ですくすくと育ち、生後6ヵ月目には早くも片言ながら『こんにちは』と言い、1歳の誕生日にはよちよち歩き出すほどの成長ぶりをしめしていました。
 
 しかし1歳7ヵ月目に、原因不明の高熱と腹痛におそわれ、一時は医師も見放すほどの重体に陥りましたが、辛うじて一命だけはとりとめました。けれど重い熱病のため、聴力と視力を失い、光と音の世界から完全に遮断されてしまったのです。幼いヘレンのわずかに記憶に残る言葉といえば、水を意味する「ウォー・ウォー」のたった一言で、ほとんど言葉というものを習得することができませんでした。
 父も母も、ヘレンの不幸をあわれむあまり、ヘレンが何をしようが許すことが愛だと勘違いしていました。だからヘレンは、わがまま、気ままに育ち、短気で、大人もまったく手に負えない子どもになっていったのです。顔立ちは賢そうだが、何か魂の抜け落ちた感じの野生児でした。家では、まるで暴君のように振る舞い、手にさわるものは何でも床にたたきつけ、手づかみで食事をしても、家のものは誰もそれを正そうとはしませんでした。
 
 それでも母子の間では何とか身ぶり手ぶりで意味は通じたので、両親は希望を捨てませんでした。両親はさまざまな文献を調べて各方面の名医の診察を受けるうち、視力の回復はどう手を尽くしても不可能だが、たとえ視聴覚障がい者であっても立派に教育することは可能であるという確信をもちました。

 ある日ケラー大尉はヘレンを連れて、電話の発明者で障がい者教育に尽くしていたワシントン市のアレキサンダー・グラハム・ベル氏を訪れ、その紹介でパーキンス盲学校の校長アナグノス氏に手紙を出して、ヘレンのために家庭教師を紹介してもらえるよう依頼しました。そこで推薦されて来たのが、同校を優秀な成績で卒業したばかりのアン・サリヴァンでした。

 このサリヴァン先生こそ、その後50年間ヘレンに寄り添い献身的な努力によって、後にアメリカの著名な作家マーク・トウェインをして 『19世紀の奇跡』 とたたえられ、「聖女」とまで呼ばれたヘレン・ケラーを育てあげた『偉大なる教師』 その人でした。

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