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Debussyとかクラシックのありようとか

を読んで、Debussyの音楽を聴いていたら以前思っていたこととかいっぱい湧いてきて、吐き出したくなりました。

わたしは幼少から親の方針により問答無用でピアノを習わされ、(他にも習い事が色々あって)みんなが遊んでいる時に自分だけ習い事、というのが凄く嫌でずーっと嫌々やっていました。

今思うと、子供の頃からピアノ自体は嫌いではなかったんだと思うのですが、完全に型にはまった古臭い手順で練習させられ、「次はどんな曲を弾いてみたいか」なんて聞かれるはずもなく、先生の趣味だったりと何だか良くわからない有名どころの作曲者のクラシック音楽を次々と課題曲として与えられていき、完全に作業と化していました。

わたしの性質と、昔ながらの厳しさもあり、歯向かうことは一切出来ませんでした。

そして、わたしの心は”無”のまま、ただ繰り返し暗譜をこなしていっていました。

自分が習わされる前から、姉が自分の意志でピアノを始めており、必然的に常に姉がピアノを家で弾くのを聴き、姉がレッスンの日は、一緒に連れていかれ、レッスンが終わるまでのただひたすら退屈な時間を(怒られるので)静かに耐えて過ごしていました。
今でも当時のレッスンが終わるまで待っている間のそのレッスン部屋の在りよう、時計の針があの辺になったら終わるんだよなー、とか当時の自分にとって途方もなく長い時間だったのが結構鮮明に思い出されます。

今同じ年頃の自分の息子に、同じことをさせたら絶対に耐えられなくなってパーン!ってなりそうですw

で、そんなんだから当時自覚はなかったのですが、姉が色んな曲を弾いている中、Debussyの曲だけ(正確には他に誰かの2、3曲もありますが)やたらと記憶に残っているんです。

例えば、

子供の領分2:象の子守歌
姉がこの曲を練習している時に、どろんのもへえという絵本を読んでいて、絵本の中身は覚えていないのですが、この曲はわたしにとっては「どろんのもへえのテーマ」として、絵柄と共に染み付いています。

んで、誰々の何とかという曲が弾けるレベルになったらやめてもいい、という先生のアドバイスから来ている親の謎ルールのもと、12歳の時に晴れてピアノレッスンから解放されます。この卒業曲は当然どんな曲だったか微塵も思い出せません。

そして高校生になる前くらいに、実家にあった父のクラシックギター(父はたまに歌謡曲をジャンジャカコード弾きして歌う程度でしたが、何故か母が昔クラシックギターをプレゼントしたらしい)をいじっていたら、何とも面白く、すぐにエレキギターを買って弾くようになりました。

その後はしばらくギター三昧、音楽三昧、の日々になり、バンド等をやっていると当然、自分で曲作ってやらなきゃ、みたいな事になってくるワケですが、

クラシックって、何でコピーして終わりなんだろ?

今も特に調べるつもりがないので、クラシックの定義?がよくわかりませんが、ごく一般的に目にする音楽の中では、(古典だから当然?)クラシックだけ0から作らず”演奏家”であって、誰かの曲をどう解釈するか、みたいなところに集中していておかしくね?って高校生のわたしは過去の我慢の怨念もあって、浅いながら「クラシックまじつまらねー」と思うようになりました。

ただ、そんな中でもやっぱりDebussyの曲だけは、要所要所で思い出して、たまーにピアノで練習したり、

子供の領分1:グラドゥス・アド・パルナッスム博士
を得意だったタッピングを駆使してエレキギターで弾こうとして、難しすぎて断念したりしていました。

さらにその後、過去の怨念とか色々な噛み合いから、
”音楽理論をちゃんと広く学ばなければ”
という勘違いで、興味もないのに楽典をかじったりした時に(まぁほぼさっぱり忘れましたが)、わたしにとって怒りを伴って象徴的になってしまったものとして

平行(連続)5度の禁則

という概念が出てきました。
これ、まず空虚5度という言葉があるみたいなのですが

空虚五度とは、楽曲中における完全五度のみの響きを指す音楽用語。長三和音、短三和音の第3音を欠いていることで、長調、短調いずれの性格も持たない。同様の手法をロックではパワーコードと呼ぶ。

Wikipedia

ドミソーでいうところの、「ミ」がない状態で音を出した時の響き。

要は、一般的には「ミ」が半音低い「ミ♭」だと暗い響き、ノーマルな「ミ」だと明るい響き、って位置付けているのですけれど(昔からわたしはこの位置付け自体が洗脳だと感じるのですが)、その「ミ」を弾かない状態。
で、そのままドソー⇒レラーと平行して進行するのは、音楽的に響きが悪いので絶対にやっちゃダメ!

と言われるんです。で、この時教わっていた先生が言っていたのは
「まー確かに響きとしてもわかるんだけどね。とりあえずこれはやっちゃダメ。でも〇〇(多分モーツァルト)が××って曲でこれやっててそれはOKとされていて、〇〇の平行5度、とか呼ばれて美しい!って言われるんだ」
「は??」

この時思い出したのは、中学生の音楽の授業で「みんなで作曲をしましょう!」といって簡単なメロディをそれぞれ作ったりした時に、先生がある生徒のメロディの譜面を見て、
「ここで急に音が下がり過ぎているから、これは1オクターブ上に上げましょうね。」
とその生徒の確認なしに(まるで間違いを見つけたように)修正していた時に
「何のルールがあって勝手に修正してんだよ!そんなん本人がそれが良いと思って作ったもんだろうが!」
って思った事。

ちなみに、ロック系の音楽では最初から最後までずーっと平行5度の曲が普通に名曲としてもいくらでも存在します。(楽器の音の特性にもよる、って話も当然あるのですが)

それで、ピアノを弾くと喜ぶ親、エレキギターを弾くとほどほどにしなさいという空気を出す親、といった環境であったことや、当時の思い込みもあるのですが、嫌いなクラシックがこんな下らないことをやっていて、自分が好きな音楽は自由なのに、低俗なものとして扱われている気がして、若者ならではの怒りに繋がっていました。

まぁ、色々と蓄積された見識や了見に基づいた一定の強度がある理論なんだろーけど、そもそも音楽なんて誰がどう思おうと扱おうと自由なのに、こんな権威にまみれたルールと戯れていることの何が楽しいの?とか。
そもそもわたしの”学ばなければ”というのが、押し付けられた権威を無視したあとの背徳感から一旦真面目にやってみよう、という大きな勘違いから来ていたのですがーw

で、平行5度の説明を調べていたら、今まで知りませんでしたがDebussyさんもやっていたというw

沈める寺
で、どこが平行5度かなんて確認する気もないですが、とあるサイトでこの曲が
音楽勉強したことあるのかこの人?大丈夫か?
的なコメントされているのを見かけたのですよね。
ほとんどの人が「あっこれ平行5度だよ!」って気付けないようなレベルの構造を”お勉強”することで理解した上で、ただただ、心地良いか興味がないか、自由に聞けば良いものを、好き嫌いを超越したところでそのお勉強したルール上のみでマウントをとって
「何だこの人大丈夫か?」
と言える感性はどういったものなのでしょうかw
ついついいつも言っている権威の下らなさに思考がいってしまいます。

時は経って今から2、3年前。
何かのはずみで、「ピアノロールによるDebussyの本人演奏」があることを知りました。

ピアノロールとは、オルガン式オルゴールや自動ピアノに取り付けて使用する、演奏情報が穿孔された紙製のロール(巻き紙)のこと。

Wikipedia

↑昔ディズニーランドのゲームコーナーみたいなところにあって、百円入れると勝手に鍵盤が動き出して演奏していたアレです。本人が演奏してアレに記録したものを再生している、と。

これまで貼り付けてきた動画、全てそのピアノロールによる本人演奏なのですが、わたしが無知だったのかクラシックって常に”有名な人の名曲を評価されている演奏家が弾く”しかないと思っていたのです。
でもDebussyは本人の演奏が残っているというので凄く興味を惹かれてCDを入手したのですが、すんごく尖っていてハマりました。なんつーかアグレッシブ。

高校生の時、適当に良く知らないままミシェル・ベロフという演奏家のDebussy曲集CDを買って聴いていたのですが、なんつーかわたしには無機質で軽すぎて、なんなら小さい時に聴いていた姉の演奏の方が好きなくらいだったのです。

↑もう一回本人。全然違うw
これ聴いた時、ELP(エマーソン・レイク・アンド・パーマー)のキース・エマーソンのヘタウマ感を思い出しました。なんか上手いのにグチャッとしてて、正確に弾く気がないような・・・w

一番最後の和音なんて、和音ではなくバラバラに弾いちゃってる・・・。

ピアノロールって、なんか記録後に編集出来るらしいですけど、スピード変えたり逆にミスを直すとかのはずなので、ピアノロールのせいで音がよれているってことでもなさそうですが・・・

そんで、その前のミシェル・ベロフさん、以前Youtubeを見ていたらDebussy演奏講座みたいな動画があって、学生にこの曲について語りながら、ここはこういった情景をイメージして、みたいなことを延々語りながら指導していたんですけれど、、、
「わたしはこう解釈しているから、わたしみたいになりたいのなら、わたしのように弾きなさい」
っていう前提が感じられないのです。

「そのペダルの踏み方は良くない、そこはこうしなさい」
といった感じで、あらゆる点で「これが正解」と言わんばかりなのですよね。
その学生がDebussy本人の演奏みたいに弾いたら「それは違う!」って言いそうなんですけど・・・。

もちろん、ミシェル・ベロフさんの演奏が好き、という人も多いはずだし、ただの好みで個人の解釈としては大いにアリなのですが、
「彼の絵画的な思考から生まれた響きは・・・」
とか会ったことのない人の曲をわがもののように語る世界、彼に限らず本人がいないところであらゆる人がやっている、、

クラシックってなんだろ?

そういや、Debussyって不倫とか二股とか激しかったようで、それで思い出したのですが、ちょっと前にわたしの推し声優wが不倫発覚によって批判を集め仕事を失い、声優業自体を辞めてしまいました。
いや当事者で嫌な思いをする人には、色々な要素もありつつもお悔やみ申すしかないですが、ただ単に所有という作られた既成概念上に乗ったルールだけで、それとは関係ない仕事にまで謎の制裁が及ぶのはまるで平行5度の禁則でマウントを取るのと似ていますね。

クラシックってなんだろ?


↑これも好き。

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