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掟破りの……。[再掲]

小さい頃から、「ルール」にはわりと忠実に従ってきた。法治国家に生まれた以上、自分の身を守り、相手の身を傷つけないためにも「ルール」は意識して生活してきたつもりだ。今回もコロナの脅威を乗り越えるため、自粛要請という崩壊した日本語が示されるガイドラインに従い、夏の帰省も見送った。家に仕事は持ち込まない主義だったが、仕事用の区画を1Kの部屋に作った。だけど僕にとってこの時期の「あれ」だけは、どうしても我慢できなかった。

2020年秋終盤。スウェットの上下にアウトドア用ジャンパーを羽織り、マスクをして自宅マンションを出る。周りを度々気にしつつ、南へ延びた道を進む。突き当たりの右側にある建設系の事務所にはいつもシルバーカーの老人がいて、道行く人に挨拶しているが、今日はおらず安堵する。一度ランニング中に顔を合わせているため、今日出くわすことはまずいと警戒していたからだ。片側2車線の道路を見ながら、東に歩みを進める。12月初旬にしては暖かく、上着はいらなかったかもしれない。そして、「あれ」との思い出をふと思い出す。

僕にとって「あれ」は自由の象徴だ。初めて「あれ」を手にしたのは、中学の冬だった。部活の帰りに友人のRが「あれ」に誘ってきた時は正直驚いた。別に禁止されていなかったけど、なんとなく「あれ」はいけないものだと勘違いしていた。いざ「あれ」を手にして尻込みする僕をよそに、さも当たり前のように「あれ」を扱うRに、普段とは違う憧れというか、敬意のようなものを感じた。それ以来「あれ」からの誘惑に打ち勝てたことがない。たとえそのために「ルール」を破ることになっても……。

時折すれ違う往来の人々と、距離を取りつつ、三叉路までたどり着いた。信号が変わり、道路標識の「中華街」への矢印と同じ方向に横断歩道を渡る。さらに10分ほど歩いて、赤く大きな鳥居型の門の前に着く。実際のところ門は修復中で灰色のシートに覆われていて、少し肩を落としながらも門をくぐる。門の中はまるでそこだけが許されたかのように、まるで縁日かという賑わいだ。カップル、家族連れ、団体客、客引き……。全員がマスクをしていることを除いて、1年前に訪れた元町中華街と何も変わらなかった。歩くスピードを緩め、通りから各店舗の様子を伺う。確認すると、中華街の外れまで進み、一本隣の通りに入る。ここはさっきの道の半分ほどの細さで、賑わいは半分以下だ。その中でひと際茶色い外観の店先で足を止める。少し考え、店の敷居をゆっくりと跨ぐ。店は学校の廊下ほどの幅の長方形で、両側の壁際には天井に届くほどの棚が備え付けられ、乾燥して茶色くなった植物の葉が入った瓶が所狭しと並んでいる。店内を物色し、奥で足を止める。少し考えて、持ち歩きが楽で、ひとり暮らしでも保存が楽なチャック付きパックを手に取り、会計をして通りへ戻る。さっき進んできた方向に路地を進み、最初に来た門の前にある少し寂れた店で立ち止まる。この店は到着した時から目をつけており、他の店と見比べ最終的に選んだ店だ。中年の店主に声をかける。「……肉まん、ひとつ」100円玉3枚を手渡すと、店主は手を消毒し、店先につるされたビニール袋の束に手を伸ばす。一枚を破り取ると裏返しにして左手に持ち、空いた右手で蒸篭の蓋をとる。もうもうと立ち込める煙から顔を出す、白く丸みを帯びたフォルムが複数個鎮座する姿に、胸を躍らせる。次の瞬間、店主はビニール越しに直接つかみ取り、そのまま目の前に差し出した。その目には何の感情も宿っていない。至極当然のことをしたという表情だ。一瞬固まった後、我に返り、差し出されたものを受け取った。薄々気付いてはいたのだが、でかい。なじみ深いコンビニのそれより1.5倍ほどの大きさがある。しかしここで動揺してはお里が知れると、当然のような顔で店主に礼をいい、来た道を引き返した。ある程度人がいなくなったところで、マスクの鼻先に手を伸ばす。緊張と興奮で少し震えているが、固い意思でそのままあごの下までマスクをずらし、買ったものを口に運んだ。本体から生地と餡の一部をかじり取り、すぐさまマスクを上げる。口の中に広がるのは、つるつるとした張りのある皮の触感と何もつけなくてもしっかり味のある餡のバランスが織りなす、絶妙な味わいだった。一口目を飲み込むと、またマスクをおろし二口目、三口目と頬張る。時折、前からすれ違う人がいるとばつが悪そうにマスクを上げ、人がいなくなるとまたマスクを下るすことを繰り返し、帰り道のまだ半分も満たないところで平らげてしまった。そこから残り半分の道のりはポケットからイヤフォンを取り出し、お気に入りの漫才コンビの深夜ラジオを聴きながら帰路に着く。自宅へ戻ると肉まん屋の前に寄った店の袋を取り出す。「杏仁紅茶」と書かれた袋のチャックを開け、中からティーバッグをカップに入れ、沸かしておいたお湯を注いで口をつける。「普通の紅茶だな。甘くない。」とひとりごとを呟き、自らの不要不急の外出を労うのであった。

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