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無料塾が人をつくる|第2章-8|皐月秀起

「もう終わった...」、インドネシアでの苦悩

伸びゆく新興国で自分も一緒に成長したいと思っていましたが、現実はとても厳しいものでした。

まずは仕事面、これが全くの力不足でした。それまでの日本での仕事は、ある意味「売ることだけ」を考えていていい環境でした。それが、日本側(買う側)とインドネシア(売る側)の間に立って仕事をしないといけなくなりました。具体的には、少しでも安く買いたい日本と少しでも高く売りたいインドネシアの間で右往左往してしまいました。「100ドルで買いたい」日本と「150ドルで売りたい」インドネシアの間に立ち尽くしてしまったのです。さまざまな状況証拠を整理した上で、ある程度の「落としどころ」に導くのが駐在員の仕事なのに、あれこれ試行錯誤する工夫も「自分がやるんだ」という気迫も、何もかもが不足していました。

それと同時に、社内の人間関係にも苦しんでいました。「駐在員は24時間営業」と知った上で着任しましたが、当たり前のように週末に仕事が入り、製品のアレンジの仕事と出張者のアテンドの仕事が重なったときは、プライベートの時間がほとんどなく、仕事と同じく右往左往するだけでした。自分の意思や自主性はなくなり、もう言われたことをこなすことで精一杯になっていました。そんな主体性のない自分に周りが信頼してくれるはずもなく、日に日に孤立感が増してきました。海外駐在なので限られたメンバーしかおらず、事務所内で相談できる人もいませんでした。

1年過ぎても状況は変わらず。ある日、得意先と一緒に出張に来た先輩社員さんと一緒に、サマリンダというカリマンタンの田舎町に滞在したときのことです。夕食後にホテルの部屋に戻る前に呼ばれ、カフェスペースで「お前、大丈夫か?(日本の)みんなは分かっているから頑張れ。」と励ましてくれました。「みんなは分かってくれているんだ」と、そのときはものすごくうれしかったですが、あとからよく考えると悪戦苦闘しているのが周知の事実だったんですよね。

さらには、輸入チームを統括する責任者が本社からやって来たときに、週末に面談に呼ばれ、「どうだ、大丈夫か?ダメなようだったら、日本に戻ってもらうように考えるぞ。」と言われました。私は確かに追い込まれてはいましたが、不思議と日本に戻りたいなとは思っていなかったので、「大丈夫です」と言いました。

意気揚々と駐在に出てちょうど2年経った2003年3月。土曜日に携帯に本社から電話があり、「何だろ、土曜日に?」と思いながら出たところ、「丸2年だけど、九州だったらいいだろう?」との言葉でした。いわゆる帰国の内示です。駐在期間は、基本的に3年と言われていました。そんな中、丸2年での帰国。事実上の戦力外通告に等しい駐在でした。

九州の水が合う

2003年4月に九州支店に着任しました。事務所がある福岡を拠点に、九州全部と沖縄までが担当エリアでした。インドネシアでは、ほろ苦い2年間を過ごしましたが、九州は自分にとって最高に充実した4年間になりました。

ある製品の営業担当だったのですが、担当は実質私1人で、上司に適宜報告はしながらも何から何まで自分でやる環境でした。外から見れば、インドネシアをクビになって2年で帰ってきたので、もうあとがない状態でしたが、もう自分しかやる人がいないので、「取り返してやる」とか「見返してやる」とか考える余裕がありませんでした。

さらには、支店長や直属の上司などに恵まれて、のびのびやらせてもらいました。おそらくインドネシアでの私の悪戦苦闘ぶりは聞いていたと思いますから、さぞ心配だったと思いますが(笑)、よく任せてくれたと思います。

売って売って売りまくった九州での営業
そして一番大きかったのは、お客さん(得意先)に本当に恵まれました。お客さんが「海外帰り」ということをかなり評価してくださって、「現地(インドネシアなど)のことをよく分かっているだろうから、任せて安心」と思ってくれました。現地(インドネシア)と得意先(日本)の間に立って調整することは駐在時代と変わりませんが、どちらかの言いなりにはなることなく自分の考えを持って交渉することができ、駐在時に苦労した経験がかなり生きました。

こうなったらこっちのもので、「やったらやっただけ」業績が上がりました。この感覚はサッカーコーチをしていたとき以来です。多いときは月に100時間以上の残業をしていましたが、不思議と全く疲れませんでした。家族も福岡・九州をとても気に入ってくれ、次女も生まれ、今も何組かと家族ぐるみでお付き合いがあり、公私ともに充実した4年間でした。

東京に5年間、そしてサラリーマンを終了

2007年4月に九州から東京に異動になりました。東京でも同じく営業をしていましたが、1年9か月勤めたあと、退職することにしました。本社に近いところにいると、今まで見えていなかったものが見えてき始め、これからの自分のキャリアを考えた場合、違う環境に身を置くことにより、九州のときのようにもう一度成長を感じたいなと思ったのが理由です。

2009年1月から、アルミの建材メーカーである日本ハンター・ダグラス株式会社(現ハンターダグラスジャパン株式会社)
に転職しました。オランダに本部を置く外資系企業で、アジアユニットに属する日本法人でしたので、今まで行ったことのなかった中国(上海、広州など)にも出張の機会があり、貴重な経験ができた3年間でした。

そして、2011年12月末に日本ハンター・ダグラスを退職し、家業を継ぐことにしました。大学を卒業してから、大阪に6年、インドネシアのジャカルタに2年、福岡に4年、そして東京(住まいは横浜市青葉区)で5年、計17年間のサラリーマン生活でした。翌2012年はちょうど40歳になる年でした。全く新しい環境に身を置くには、絶好のタイミングでした。別に計算したわけではありませんが(笑)。

これにて第2章が終わります。昔話にお付き合いいただき、ありがとうございました! 次回から第3章「助走~学生の成長のために~」です。徐々にリーダーズカフェの立ち上げに繋がっていきますが、昔話は続きます(笑)

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