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子どもだけが引き出しを開けられる - 好きと好奇心だけで生きるということ -

仕事のクライアントと呑む機会をいただいた。僕は呑まないので、呑む人と一緒に食事をする機会と言った方が正確かもしれない。

おとの金曜日は週末に差し掛かる、やや地に足のついていない雰囲気で、少しばかりの逸脱を見逃してくれるような、赤さを増している。

季節の移り変わりが人の心を動かすのか、人の心の動きがいつもそこにあって、季節の移り変わりによって浮かびあがってくることに自覚的になるのか。

プロジェクトのクライアント側のリーダーがぶつけてくる質問はストレートで素直で素敵だった。その時にはそう感じなかったように思うが、振り返るとまるで小さな子どもと話をしていたような感覚が蘇ってくる。

子どもは「好き」と「好奇心」で生きている。

もちろんその反対もある。そして、その軸の正方向だろうが負の方向だろうが、子どもの話は最短の距離でやってくるし、高い熱量を帯びているので、惹き込まれる。その豊かな表情や輝く瞳をずっと見ていたくなる。

本当の彼女は大人の姿をした鎧の中にひっそりと存在していた。重くて動きにくいし、何しろ良く見えないし聞こえない。手が届かないためすっかり手入れもできていないが、そこは武器を携えた鎧のこと、ひとたび動き出せばなかなか止めることができない。

普段そんな鎧に身をまとっていた彼女は、いつでも誰かが会いに来るのを待っていた。動けば人を傷つけるかもしれない。傷ついた人を見たり想像することは自分を傷つけることになる。待ってみようか。待つのもいいかもね。

「好き」と「好奇心」を持つ子どもたちはどこに行ってしまったのだろう。

昼間の鎧を見た僕は、プロジェクトを遂行するという社会的立場と、プロジェクトはかくあるべきであるという個人的なプロフェッショナリズムから来る画一的なモノの見方で、ああこれはどうしようもないな、と思っていた。

僕の中からも子どもたちはいなくなっていた。

そういうことを思い出させてくれる狂おしいくらい魅惑的な時間だった。それくらいに彼女の口から綴られる「好き」と「好奇心」には存在感があった。その絵に手で触れることができると思った。

だからこそ僕の中の子どもたちが、彼・彼女たちがずっと高い温度のままにこねくり回している原体験という名の何かを僕に言わせ、その結果、僕の体温が上がったんだと思う。

大人というものは引き出しのようなもので、誰かに引き出しを開けてもらってはじめてその中身を思い出すことができる。その引き出しを精一杯の好奇心で開けてくれるのはいつでも決まって子どもたち。

おとが、子どもたちが集い遊ぶ場所であり続けますように。

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