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多元方程式の変数は踊り、簡単な世界とともに絶望がやってくる - 社会課題を語る人が陥りやすいこと -

僕が嫌だなと思うことのひとつが、社会課題を提起する人の多くが、相手に対して非常に攻撃的な態度を採ることが往々にして多いこと。

先ほどまで地球環境について危機感を持っていた方々が突然、「◯◯な人は滅びてしまえ」とか、「死んだら良いのに」というような言葉を吐き出すことにはちょっとびっくりする。

言葉は思考の結果として考えて良いと思うけど、そういう言葉を発する人たちの頭の中では正義と悪の二元論が鎮座していて、倒すべき悪というものが存在しているのではないかと思う。

僕はたまにこういう妄想をすることがある。

僕の奥さんは中国人だけど、中国と日本とが戦争状態、しかも”総力戦”状態となり、中国で暮らしていた僕が中国軍に捕らえられ、戦争犯罪者として糾弾・処刑されるというものだ。中国の民衆が見守る中で、奥さんやその家族たちもその中に含まれている。最期に何か言うことはないかと軍人に言われる。

映画の影響とか受けてるんだと思うけど、こういう妄想をし続けてきた結果として今があるので、そこは僕のパーソナリティとして受け入れてね。

さて、話を戻して、上記のようなシーンで脚本として僕が何かを話すのだとした時、一体何を言うのだろうか?そして、結実としての言葉の裏側にどのような思考が駆け巡るのだろう?

更に、僕が処刑されたとして、その後に残された奥さんや家族、もっと言えば群衆のそれぞれは何を考え、言葉にするだろう?そして、その内容は僕が考えたことや口走った内容とどれくらい距離があるだろうか?

目の前に起こっている物事が真実であると裏付けるものなんてこの世のどこにも存在しない。それは脳を構成する電子回路が気まぐれに見せている幻影かもしれないし、繰り返し繰り返し続けてきた思考が回路に焼き付いた結果としてのルーティーンなのかもしれない。

もっと深く。

僕が思っていることとあなたが思っていることとは、根本的に独立事象なのだろうか、それとももう一つ抽象度の高いレベルにおけるそれぞれの変数に過ぎないのだろうか、そしてその高いレベルにおける方程式は一体誰のものなのだろうか?

独立事象であるなら何かを決めつけてもいっこうに構わない。それは世の中に対して何ら影響を与えることはないし、反対に与えられることもないのだから。そして、独立事象であるということは、世の中について決めつける態度や行為そのものが意味を持たなくなるというところで語るに落ちる。

「滅びてしまえ」、「死ねば良いのに」

と吐き捨てた対象は実はあなた自身であり、一部の変数である自分自身を殴りつける態度や行為そのものであり、それ自体が全体の系の中では全く意味を持たないし、その変数自体が方程式の中で意味すら持たなくなっていく意外に機能する術がない、ということで絶望なのかもしれない。

分かっている人はそんなことを口にしない。
分かっている人は口にしない。
ただ、道を歩き、それぞれの足跡を残していくだけ。

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