自分の言葉で自分を語る、できてないよね?

先日、”宗教の未来を話そう”というテーマでのシンポジウムに参加する機会に恵まれた。

きっかけは、僕が共同オーナーである居酒屋”浅草おと”の常連さんで、浅草のお寺の住職さんからイベントの存在を教えて頂いたことが一つ。

それに加えて、シンポジウムのパネラーにカソリック浅草境界の晴佐久(はれさく)神父がいらっしゃったことだ。

僕の叔母さんはカソリックの修道士で、京都は金閣寺の背後にそびえる山の中にある修道院で20代から今までほぼ外に出ることのない厳格な修行生活を送っている。面会はできるが、それも壁越しである。ごくたまに会いに行くのだが、その際に「英雄くん、一度浅草協会へ行って晴佐久神父に会ってくると良いよ。若い子たちを惹き付けるとてもおもしろい人だから」と言われていたところ、そっと向こうから手が差し伸べられるかたちになった。

仏教、神道(なんと浅草神社の矢野さん)、キリスト教、イスラム教に属する人たちから、個人的な意見という前提の中で、非常に興味深いやり取りだった。

そこに共通していたのは、コミュニティの再構築、晴佐久神父の言葉を借りれば”家族の定義の再構築”ということだった。

そして、その”場の定義”が、異なる宗教をバックグラウンドに持つ4人の中で微妙には違う。お堂の中であったり、地域であったり、新しい家族であったり、インターネット上での緩い繋がりであったり、物理的であったり、抽象的であったり。

いずれにせよ、この”再構築”を成し得ない宗教、もしくはその宗教に属する個別の場というのは滅んでいく、ということも悲劇的ではあるが共通の見通しだった。

シンポジウムのパネラーの1人であり、仏教に属する松山副住職がローマ教皇フランシスコに会った時に、彼がキリスト教(厳格にはカソリックのことと思われる)が今後人々の力となり続けられるかについて、2つのことだけやっていけば良い、という発言をされたとのことだった。

1. 教会を出なさい
2. 一般の人々と話をする時に聖書から引用することをやめなさい

多様な情報や選択肢がたやすく手に入り、むしろ迷いのもととなっているこのご時世に教会で待っていてやってくる人はカソリックの信徒であり、不安を抱えて生きている人々は、教会の外にもっと沢山いる。すなわち、教会で待っているのではなく、どんどん世の中に出て、人と話をしなさい、ということである。

果たして、人と話をしていく中で、聖書の言葉を借りて(権威主義的に)なにかを教えるというスタンスではなく、自らの言葉で自らの人生を語りなさい、という意味だ。

この2つの(広義の意味で)人としてやるべきことは非常に根本的なことであるにも関わらず、いや、だからこそ、自分にとっては衝撃だった。

僕は戦略コンサルタントとして、大手企業にも中堅・中小企業にもベンチャーに対してもサービスを提供する中で、色々な人と話をする。また、浅草おとという居酒屋のオーナーとして色々な人に声をかけて頂いて、お店で話をする。中国帰りというバックグラウンドから、日本にいる留学生や外国人と話をする機会も多い。しかし、そのほとんどの会話から感じられるのは、その相手が本当に自分の言葉で自分の人生を語っているだろうか、ということで、それは革新に近い疑問符であり、当然の帰結としての虚しさを感じることが多くなった。

フランシスコ教皇が話したことは、カソリック教会の神父に向けてということは当然ながらあるとして、実は一般の人々に対しても向けられているのではないか。教会というのは、身の回りにある、自らもしくは社会的に定義されたフィルターバブルとしての”境界”の中でしかなく、そこに閉じこもっている限り、確率という名の牢獄の中にいることと同じことだ、と。そして、そこから出た時に、借りてきた言葉ではなく、自らの人生として人と話をすることができるのか、ということ。

「◯◯をやってみたい」とか「△△の会社に行く」、「✕✕が手に入るから」、「◎◎しないと不安だから」とか、いろんな人がいろんな話を投げかけてくるが、いつも”So What?”と思う。

その先にどんな世界があるのか、その中で自分がどのように心地よく位置づけられるのか、人生としての個がどこにあるのか、そういった話からは全く分からない。ある特定の牢獄の中で話されている現象や規範について、その中でしか通じない用語を借りてきているから共感することができない。ましてや、その牢獄についての説明や、自分としての解釈が前置きとして語られない中で…。

フランシスコ教皇が投げかける世界は、実は簡単にできそうで、なかなか難しい。特に、狭い牢獄で生活する現代社会の日本人には。

内省しつつ対話に持っていき、再び孤独に戻っていくことの辛さがここにあったとしても、それでも人として生きていくために少しでも努力ができるのであれば、きっかけとしてなにかをチャレンジする機会があってそこにまだ意味を見いだせていなかったとしても、少しでもそれを自分の言葉で人に語ってみることこそが人としての営みであり、人を生きるということに他ならないのだということだ。僕はそう解釈した。

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日本で住み、暮らし、働くひとに贈る哲学

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