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角川三人娘 80年代 歌でもヒットを飛ばす🎶

こんにちは、Hideです♩

80年代のエンタメの話題をよく書いていますが、今回は角川書店から映画産業に進出して、そこから誕生したスター女優たちが、音楽的にもヒット曲を出して人気を得た。というお話をしていきます。

70年代後期から、自社の出版している小説を映画化して、本のプロモーションとして映画製作にも進出して、本も映画もヒットさせるという、それまでにはない手法で成功を収めました。

その中でも、輝いていた角川映画出身の”角川三人娘”と呼ばれた女優たちが、自分が主演する映画の主題歌を歌ってヒットさせました。

本と映画とレコードまでも爆発的にヒットさせた成功例です。

80年代に入るとアメリカでも「フラッシュダンス」や「トップガン」、「フットルース」等々、映画のサントラ盤からシングルヒット曲が生まれるというスタイルが出てきました。

アメリカは、既に音楽の宣伝として、曲に対してプロモーションビデオを制作して、曲を売り込むという手法ができていたので、もっと大きな映画業界とのコラボしたらもっと売れる、と考えたのでしょう。

角川映画のスター女優、”薬師丸ひろ子” ”原田知世” ”渡辺典子”の音楽面についてお送りしていきたいと思います。

薬師丸ひろ子「セーラー服と機関銃」同名映画主題歌が大ヒット 

薬師丸ひろ子「セーラー服と機関銃」シングルレコード

オリコン1位を達成

映画「セーラー服と機関銃」のヒットと共に、主演の薬師丸ひろ子が、主題歌も歌唱し、オリコンで1位を獲得し、当時TBSの人気番組だった座・ベストテンでも1位まで上り詰め、同番組にセーラー服姿で出演して話題になった。

1981年11月21日発売 作者来生たかおと同じキティーレコードよりデビュー いきなり1位となった。

作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお 

作曲者の来生たかおも異名同曲の「夢の途中〜セーラー服と機関銃」を同時期にリリースし、こちらもヒットさせた。

薬師丸の方は公称売り上げ枚数で120万枚と言われ、最終的に2曲ともにロングヒットとなり、来生と合わせると200万枚を超えたと言われている。

来生の曲が一部歌詞が違っている。

薬師丸は、コーラス部に所属した経験もあり、マイクを離して歌うファルセット唱法で歌っていた。

この映画出演後も「メインテーマ」「探偵物語」、「Wの悲劇」など多くの映画に出演し、主題歌も担当していずれも映画曲ともヒットさせている。

当時、角川三人娘の稼ぎ頭であり中心的存在であったことは間違いない。

薬師丸が出演した映画も歌った曲も、ヒットしないはずがないと、我々ファンの誰からも思われていた。

それほど、勢いがあったのは同年代の方ならお分かりだろう。

その後も朝ドラの劇中や歌番組などで、歌唱力豊かな歌を披露している。

当時、私は高校生で薬師丸ひろ子とは同学年だったが、既に薬師丸は若い世代からはスーパースターであり、テレビで歌う姿を見ようと、ベストテンの出演の際には、皆テレビに釘つけになった。

「セーラー服と機関銃」は当時日本映画の興行成績を更新していて、薬師丸自身も高校1年生だったが、テレビで見る姿も、スター女優のオーラが出ていた。

角川三人娘の長女と呼ばれ、彼女の活躍は当時凄いなぁ〜と感じさせるものだった。

まさに、80年代前半に、角川映画から生まれた天才女優の筆頭だった。

原田知世「時をかける少女」同名映画主題歌が大ヒット

1983年4月21日発売 作詞作曲:松任谷由実

オリコン2位 TBSザ・ベストテン3位 同年紅白歌合戦にも出場

原田は幼い頃から、ユーミンの曲を好んで聴いており、ユーミンが作った歌を歌えると、非常に感激して一生懸命歌ったという。

松任谷は、原田に楽曲提供を行うにあたり、歌唱音域を考慮して制作した。

原田はこの曲は三枚目のシングルだったが、当時まだ歌を苦手としており、音域が狭かった。

原田は身長160cmと角川三人娘の中では一番高かった。他の薬師丸や渡辺が150cm前半と割と小柄だった為。

その後は、音楽活動にも力を入れ、現在では自分のバンドも持ってコンサート活動なども行っている。

当時、私は高校を卒業したばかりだったが、あどけない顔で一生懸命テレビで歌う原田知世に、薬師丸とは違った不思議な魅力を感じた。 

原田知世は長崎県出身で、年齢は薬師丸よりも3学年下でこの映画と曲がヒットした時は、高校1年生だった。

映画のストーリーは、曲名の通り、タイムトラベルをテーマにした内容だったが、歌詞や曲も映画にマッチしていて、私も大好きな曲である。

同時期に、ユーミン自身もセルフカバーしてシングル曲のB面に収められている。

幻想的なSFを広島県尾道市を舞台に繰り広げられるストーリーだったが、古日本の歴史を感じさせる抒情的な町を舞台に時空を超えたラブストーリーは、本当に面白かった。

尾道の風景が今でも目に焼き付いている。

渡辺典子「晴れ、ときどき殺人」同名映画主題歌がヒット

1984年4月21日発売 作詞:阿木燿子 作曲:宇崎竜童

オリコン11位 ザ・トップテン9位

原田の「時をかける〜」から1年後に映画が公開され「晴れ、ときどき殺人」曲名は「晴れ、ときどきキルミー(殺人)」と英語を用いられた。

福岡県北九州市出身で、年齢は薬師丸ひろ子の一つ下であるが、デビューは二つ年下の原田知世より一年遅くなった。

主演と主題歌を時期をずらして担当させ、人気女優を売り込む角川の戦略が成功し、見事に角川三人娘を一気にスターダムにのし上げた。

渡辺は小柄だが、端正な顔立ちと、女性らしい美しい声を持ち歌唱力にも優れていた。

この映画曲の一年前に主演女優のスキャンダルにより降板した女優に代わり代役を勤めた「積み木崩し」1983年第7回日本アカデミー賞で新人俳優賞を受賞。

「晴れ、ときどき殺人」以前に、渡辺としては幸運にも、女優として評価されていた。

テレビで歌っている姿も私も見たが、清楚なイメージで綺麗な歌声で歌う渡辺は典型的日本美女という感じがした。

私から見て、個性が強い他の二人に比べ、渡辺は正統派美人女優という雰囲気だった。

三人娘の次女扱いではあったが、世間に認知された頃には既に、女優として完成されていた様に感じましたね。

当時、角川映画が人気を博していた頃にデビューして、映画も曲もヒットさせた角川春樹氏のプロデューサーとしての戦略は見事だったと言える。

紹介した3曲共、楽曲の制作は、いずれもヒットメーカーのシンガーソングライターや作家の方々です。

三人娘への期待の大きさがわかりますよね。

私が高校生から20歳になる頃なので、特にこの角川三人娘は魅力的だった。

それまで映画女優というと、どことなく昭和の雰囲気が抜けなかったが、新しいヒロインが誕生したな〜という感じでワクワクして映画を観て、歌も聴いていたように思い出させます。

私の青春時代には欠かせない女優だった三人でしたね。

その後も薬師丸ひろ子は女優として、テレビにも出演する様になり、CMなどにも積極的に起用され、日本で薬師丸ひろ子という女優ブランドを獲得したと言える。

原田知世も、1986年に角川事務所を独立後、「私をスキーに連れてって」や「彼女が水着に着替えたら」などバブル期の象徴となるトレンディー映画に出演ヒットさせ、昭和後期のミーハー文化の中、強く印象に残る女優だった。

CMで親子の母役を爽やかにこなすなど、演技力には長けていた。

三人娘の中では、後年音楽的な分野において一番力を注いでいたのも原田である。

オリコンによると、原田のシングルとアルバム併せて300万枚を超える売上枚数を記録している。

渡辺典子も87年に角川事務所から独立後もテレビ、映画、Vシネマなどで活躍、CMにも出演した。

1980年代初頭から、角川事務所の怒涛の快進撃も、この三人娘がいたからだろう。

現在になっても、青春時代だった頃に観た三人の女優が今でも思い出の中で光り輝いている。

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