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落ちこぼれだった僕が、憧れの本田圭佑から投資を受け、ホームシェアサービス「Homii(ホーミー)」を始めるまで

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「あいつは終わったな」

誰かに言われたら、一生立ち上がれなさそうな言葉です。

僕は今までの人生で一度だけそう言われたことがあります。友人だと思っていた人からSNSで揶揄され、それを見て傷つく。心無い言葉は、精神的に未熟な高校時代の自分にとってあまりにも鋭利な刃物でした。

しかし、そんな絶望の淵にいた僕に、テレビ越しから希望を与え、暗闇から引き戻してくれた人がいました。その大恩人こそが、サッカー選手 本田圭佑さんです。

「事実は小説よりも奇なり」

あれから6年後の今、僕は雲の上の存在だった本田圭祐さんご本人から出資を受け、「Homii(ホーミー)という下宿文化を現代にアップデートする新しいホームシェアリングサービスを提供しています。

日本で住む場所を探す外国人ゲストと自宅の空き部屋を提供したいホストを、WEBサイト上でマッチング。最短1ヶ月間から住むことのできるサービスです。Homiiは、ただの「留学生向けのホームステイのマッチングサービス」ではありません。

外国人のゲストと日本人のホストに限定してサービスを開始しましたが、今年中に、国籍を問わず、誰もがゲストやホストになれるように、サービスを拡張予定。僕も、日本人ホストの家での「Homii生活」をしています。

「他人の家に泊まる」を文化にしたAirbnb。私たちダイバーシーズは、Homiiで「他人の家に住む」を文化にすることを目指しています。

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今日はここで、僕が歩んだ人生や「Homii」にかける想いについてお話させてください。「そもそもアンタは誰だ」と思った方に、簡単な自己紹介しておきます。僕は、「Homii(ホーミー)」を運営する株式会社ダイバーシーズ代表の洪 英高。25歳です。

本田圭佑さんが代表を務めるKSK Angel Fundをはじめ、複数の個人投資家の方々から資金調達を行い、サービスをローンチいたしました。

本田圭佑氏が最初の投資家として参画!外国人と日本人の共同生活で「住」の課題を解決するホームシェアサービス「Homii(ホーミー)」サービス提供を開始

ホームシェアサービス「Homii」が提案するホームステイの新しい形--本田圭佑氏も出資

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この記事では、
・なぜ、僕が会社をはじめるに至ったか。
・なぜ、僕が最初の投資家に本田圭佑さんを選んだか。
・なぜ、僕がホームシェアサービス「Homii」を始めたか。そして、どんな世界を目指しているのか。


など、プレスリリースでは書ききれなかった3点を振り返ってみたいと思います。偉そうに自分について語るには、まだ早いかもしれません。

しかし、サッカー、大学受験、プログラミングや留学など、挫折を味わいながらも一歩ずつ前に進んでいった経験を共有することで、誰かに勇気を与えられるかもしれないと思いました。

事業のアイデアも固まりつつある今こそが、人生の区切りだと思ったので、ペンをとってみました。少し長いですが、お付き合いください。

目次
第一章:意識高いと笑われ続けた僕を救った本田圭佑
1 /圧倒的努力が報われなかった全国ベスト16
2 /偏差値30を倍にした本田圭佑の言葉
3 /努力が報われることを教えてくれた大学受験

第二章:留学とプログラミングによって変わった僕の人生
4 / 人生を変えた初めての海外旅行、3週間のシリコンバレー滞在
5 / 誰かの役に立ちたい気持ちが芽生えたトビタテ!留学JAPAN
6 / 人生一発逆転の必殺技「プログラミング」
7 / 勝負で臨んだ二度目のシリコンバレー

第三章:アメリカで出会った投資家・本田圭佑
8 / カウチサーフィンの衝撃
9 / 「本田選手、僕とサンフランシスコで会いませんか?」
10 / 「コウ、Be crazyでいけよ!」

第四章:自分史上最高難易度の挑戦・起業
11 / 何もかもうまくいかなくて吐きそうだった一年
12/ 突然の「辞めたい」
13 / Homiiが「他人の家に住む」を文化にする
14/ 「混ぜる暮らしで、世界はもっと豊かになる」

終章:それをやるのはこのチームだ

第一章:意識高いと笑われ続けた僕を救った本田圭佑


1 /圧倒的努力が報われなかった全国ベスト16

僕は、物心がついた頃からボールを蹴り始めていました。小学校もサッカークラブに入り、中学でもサッカー部に所属し、サッカーが好きでした。だから、高校に入っても大好きなサッカーを続けることは、僕にとって自然な流れでした。

入学した高校のサッカー部は全国屈指の強豪校。メンバーも中学とは桁違いのツワモノ揃いだったので、周りに負けないようにと毎日朝練に励み、全体練習後も必死に自主練をこなしてきました。

しかし、がむしゃらに練習をしてもなかなか結果はついてきません。そんな僕の様子を見た周りの人たちは、次第に「洪は努力しても報われない」と言うようになりました。

僕は野次と真っ向から向き合い、来る日も来る日も練習を続けましたが、現実はそう甘くはありませんでした。チームとしては全国ベスト16という実績を手にいれましたが、僕はピッチ外からみんなを応援することしかできませんでした。

僕は、「努力しても報われない」という言葉に逆らい続けたものの、圧倒的な結果で周りを黙らせることはできませんでした。

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2 / 偏差値30を倍にした本田圭佑の言葉

サッカーで躓いた僕に訪れた二度目の挫折、それは大学受験でした。

僕は、近畿大学附属中学校・高校という一貫校に中学から通っていました。6年間ずっとサッカー漬けで勉強はロクにしておらず、当時の偏差値は全教科30~40程度だったと思います。

そのままエスカレーター式に付属の近畿大学に行くことは可能でした。ただし、当時の担任の先生から「あなたは受験をするべきよ」とアドバイスされる中で、「誰も自分のことを知らない環境でイチから挑戦してみたい」という思いが日増しに強くなっていきました。

その結果、大学受験に挑戦するという決断をしました。「受験する!」と家族や友人に報告すると、ほとんどの人から大反対をされました。

「絶対に受からないに決まっている」「決断するのが遅すぎる」。

しかし、周りがなんと言おうと僕の決断は揺るぎませんでした。なぜなら、反対した多くが、実際に大学受験をしたことがない人だったからです。

「やってみないとわからない」「受かってみせて周りをギャフンと言わせてやる」。
当時の僕は、そう思っていました。

しかし周りの予言は的中で、結果は不合格。サッカーに続き、またしても努力で壁を乗り越えることができませんでした。いろんな人から、ここぞとばかりに嘲笑われました。まるで自分を全否定されたかのような感情を覚えました。

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「本当に何やってもうまくいかない」

そんなふうに思いました。自分の無力さが招いた悪循環が引き起こす負の気持ちの連鎖。出口が見えない暗くて長いトンネルの中をぐるぐると歩いているような感覚でした。

寝る前も、起きた後も「死にたい、死にたい」と呟いては、部屋の外に出れませんでした。ご飯も喉を通らない日々が続きました。どうすればいいかわかりませんでした。

震災や身内の不幸など、もっと深刻な経験をされた方からすれば「そんなの大したことないよ」と思われるかもしれません。でも、僕にとってはこの時が、人生のドン底でした。

そんなある日、テレビをつけると、『プロフェッショナル仕事の流儀』という番組で、サッカー日本代表の本田圭佑選手のドキュメンタリーが放送されていました。忘れもしない、2013年3月25日のことです。

自分と同じく左利き・大阪出身・中盤のポジションとして日頃から参考にしていた本田選手が特集されているということで、ぼんやりとその放送を見ていると、2012年時の過去のインタビュー映像が流されました。そのインタビューで彼は、全治10ヶ月というサッカー選手として致命的なケガをしていた時期について尋ねられていました。

ーー「本田さん、ケガしたときどう思いました?」

それに対して、彼はこう答えました。

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「ケガをしたことで、すごい遠い試合に向けて自分を作り直せるんです」

想像もしていなかった答えでした。

曲がりなりにも、サッカー経験者である僕からすれば、全治10ヶ月の大怪我というのは選手生命に関わる大ピンチです。しかも、本田選手はケガをするまで絶好調でした。そんな最悪な心情であるはずのときに、「ケガはチャンス」だなんて言える本田圭佑という人間に、びっくりしたんです。

しかも、そのインタビューの数ヶ月後、本田選手は復帰戦でハットトリックを決め、日本代表をW杯に向けて一歩前進させました。重要な3連戦で4得点1アシストの大活躍。しかも、彼は、以前では見られなかった瞬発力とフィジカルの強さを兼ね備えてピッチに戻ってきました。

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まさに獅子奮迅の活躍。ケガから完全復活、ケガをきっかけに覚醒していく様をこの3月25日のドキュメンタリーで放送していたのです。僕はのめり込むように番組に夢中になりました。

本当にケガをチャンスに変えてしまった彼の言葉と背中に僕は衝撃を受け、勇気づけられました。それからというもの、彼のニュースを頻繁に追うようになっていきました。

そして、僕はこう考えました。「ケガをしたことで、すごい遠い試合に向けて自分を作り直せる」。この発想は自分の今の状況にも言えることではないか。

僕の高校生活は、サッカーがすべてでした。サッカーのことしか考えていなかった。サッカーにとにかく打ち込みました。

それはそれで素晴らしいことなのかもしれませんが、「視野が狭かったな」とも思いました。サッカー部を引退したときに、自分は将来なにをしたいのか、大学でなにを学びたいのかが全くわからなくなったからです。

おそらく、そんな状況で将来就きたい職業や学びたい学問を見極めるのは非常に難しいはずです。

でも今の僕には、受験に失敗したことで大学まで期間ができた。この期間を使って、自分の将来や大学に行く意味について考え直すことができる。

だから、今回の浪人という結果は、チャンスだという見方もできるのではないか。本田選手の発言を耳にしてから、そう前向きに思えるようになっていきました。

どんな苦境も見方を変えるとチャンスになる。だから、浪人はチャンス。

と、自分に言い聞かせました。そうやって、絶望に打ちひしがれていた僕は、本田選手のおかげで、浪人についてポジティブに捉えることができるようになったんです。これをきっかけに、完全にスイッチが入りました。

3 / 努力が報われることを教えてくれた大学受験

心機一転した僕は、勉強だけに本気で集中するために、「友人全員に1年間一切会わない」という大胆な制約と誓約をすることにしたのです。

今考えたら、「なにもそこまでしなくても」っていう(笑)。本当に頭がおかしい決断だったと思います。

でも、なんだろう、そこまでしないと「このまま一生変われない」そんな気がしたのです。だから、思い切ってそう決断し、志望大学も私立トップだった早稲田大学に変えました。

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友人にもその旨を報告しました。すると、「応援するよ」や「頑張れ」のような返信がたくさん届きました。そうして、僕は周りとの連絡を極力絶ち、受験勉強を開始しました。

ただ、時々、友人からLINEで「調子はどう?」と連絡が来るときがあったので、それに対しては返信するようにしていました。すると、知らない間にそのやり取りをSNS上で揶揄されていたこともありました(笑)。

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当時、僕は勉強に集中するために、TwitterもFacebookもしていませんでした。だから、これらの投稿にずっと気づかないはずだったし、彼らもまさか僕が見るだなんて思わなかったでしょう。けれど、別の友人が、この投稿をたまたま僕に見せてきました。

今の僕からすれば、「気にして取り上げてくれてありがとう」程度しか思わないけれど、当時の自分がそう思うことは難しかったんです。「じゃあなんでわざわざメッセージとかしてくるんだろう」と。もう何を信じればわからなくて、相当きつくとても傷つきました。

勉強が手に付かないときもありました。でもそんな挫けそうなときに、「ケガはチャンス」という言葉が、自分を支えてくれていました。

周りから陰でなんと批判されようと、「大丈夫、問題ない。なぜなら、浪人はチャンスなのだから」「今の自分が戦うべき相手は、彼らじゃない、自分自身だ」と、そう何度も何度も自分に言い聞かせて、勉強していました。

当時は、本田選手の存在に、言葉に、どれほど支えられていたことか。

「プロフェッショナル」以外にも、毎月発売されるスポーツ雑誌「Number」の連載も自習室の目の前にあった難波駅のジュンク堂で、勉強の合間に、必ず立ち読みしていました。

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勉強時間だけを見たら毎日10〜12時間以上はコンスタントに勉強していました。中高6年間はサッカー漬けでそもそも勉強に慣れていなかったのですが、勉強もやればやるほど夢中になり、サッカーのように楽しくなっていきました。

しっかりと偏差値という指標にも現れ、勉強開始前は30~40だった偏差値も、英語は70に、世界史は65に、国語は60にまで伸びました。

1年という時間は早いもので、気づいたら大学受験当日を迎えていました。

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結果としては、第一志望だった早稲田大学は数点及ばず、滑り止めの同志社大学に合格しました。

あれほど勉強したので、第一志望の早稲田大学に合格できなかったのは残念でしたが、なぜか落ち込む気持ちはほとんどありませんでした。

「結果はどうであれ、自分はあの暗闇の1年をやりきったのだ」
ということに誇りを持てていたからかもしれません。

本当にきよきよしい気持ちになっていたのを覚えています。

「早稲田に落ちたので、どうせまた周りにはバカにされるのだろう、まあ無視しよ」くらいに思っていたのですが違いました。

予想とは全く逆で、「同志社大学に合格して本当にすごい」「浪人しようが早稲田には落ちて当たり前。宇宙人が行く所だよ」「1年間お疲れ様」「今振り返ると、お前の目標設定能力はすごかった、当時は馬鹿にしてごめん」という声をたくさんもらいました。

悪い気はしませんでしたが、同時に奇妙にも感じました。

なぜなら、当時の自分の勉強量からすれば早稲田大学は受かることはできたはずだし、実際にあと1歩だったからです。ましてや、同志社には合格して当たり前だ、という感じだったからです。

つまり、挑戦した者と挑戦せざる者から見える景色や目標への解像度にこれほどのギャップがあることに驚いたのです。挑戦した者にしか見えない景色がある。これは、僕にとって大きな学びでした。

その学びを胸に秘め、僕はついに大阪を出ました。

第二章:留学とプログラミングによって変わった僕の人生


4 / 人生を変えた初めての海外旅行、3週間のシリコンバレー滞在

大学に入学してまだ間もないGW。僕はただひとり、サンフランシスコ空港に降り立ちました。

理由はひとつ。「IT本場」の空気を肌で感じたかったからです。受験勉強でネット配信の映像授業を受講していた僕はその技術に感心し、大学入学時には「IT技術」がサッカー、受験に代わる、次なる興味の対象となっていました。

サッカーでも受験でも完敗した僕は、次こそは絶対に負けたくないと考えていました。サッカーと受験に共通した最大の失敗要因、それは、本気になるのが遅かったことでした。だから、次の挑戦では、本気になるのを早くして勝つための入念な準備をしたいと考えました。

興味深いのは、サッカーでも受験でも成功していた人達は、プロの試合やオープンキャンパスなど、みな早くして本場に行っていたことです。

そこで僕も次の挑戦で成功するためには、「まず本気になるために、興味を持ち始めていたITの本場に行く必要がある」と結論付けました。

そして、そのITの本場こそが、検索でヒットした「シリコンバレー」。それまでシリコンバレーについては一切知りませんでした。

シリコンバレーに行こうと決めたものの、僕はこれまでPCを使ったこともなければ、海外旅行にすら行ったこともありませんでした。

しかし、「行けばなんとかなる」という根拠のない自信だけはありました。というわけで、僕は大学に合格してすぐにシリコンバレー行きのチケットを買うことにしたのです。

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結果として、最高の決断になりました。このシリコンバレーへの3週間の初海外旅行で得た海外体験が僕の人生を大きく変えたからです。

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シリコンバレーでは、幸運が重なり、現地で活躍する多くの方と出会うことができました。

また、Maker Faireというテクノロジーの祭典に行き、シリコンバレーの風に触れたことで、「テクノロジーが世の中に大きなインパクトを与える現存の最強のツール」であることに気づき、ITに対する意識がただの興味から確信に変わりました。

つまり僕は、「早く本気になるために本場を見に行く」という当初の目的を達成できたのです。

さらに、もうひとつ学んだことがありました。

それは、現地で出会った人にGoogleのオフィスを案内してもらっていたときのことです。そこで見た景色に鳥肌がたちました。

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Googleの持つ圧倒的な多様性に心を奪われたのです。なぜなら、その光景を見た瞬間、僕の脳裏に”ある記憶”がフラッシュバックされました。

ーお前、日本人ちゃうやろ!死ねよ、日本からでていけ!

このセリフを吐かれたときの記憶です。コリアンタウンがあることで有名な大阪の生野区で生まれ育った僕は、小学校と中学校でこのセリフを何度か吐かれ、国籍問題で悩んだことがありました。僕は、いまでも、その言われたときの風景、気温、風の音、天気、すべてを鮮明に思いだすことができるのです。“国籍で差別される”とはそういうことなんです。

しかし、Googleは違いました。

そこでは、いろんな肌の人たちが、「技術で世界を良くする」という共通の目標を持って、みんなで楽しそうに笑顔で食事をしていました。「お前、日本人ちゃうやろ!死ねよ、日本からでていけ!」そんな言葉や雰囲気は微塵もなかったのです。

国籍問題で悩んでいたことなどちっぽけに感じました。ただただ感動し、泣きそうになったのを覚えています。シリコンバレーに行って心底良かったと思った瞬間であり、「2年後、ここに必ず戻ってくる」と再渡米を決意した瞬間でした。

実際の様子はこちらにも書いています。
もしもパソコンを触ったことがない文系大学新入生がシリコンバレーに初海外一人旅をしたら..

5 / 誰かの役に立ちたい気持ちが芽生えたトビタテ!留学JAPAN

シリコンバレーから日本に持ち帰った「最大のお土産」、それは「誰もが、身近な人の問題をテクノロジーの力で解決しようとしている」という気づきでした。

シリコンバレーの起業家は、「起業家になるために、起業しているのではない」。Facebookはハーバード大学に名鑑がないことを解決することから、カーンアカデミーはいとこに数学を教えるところからはじまった。

「起業したい、社長になりたい」と思っているだけでは、何も生まれないとこのときに悟りました。日本に帰国したら僕は、起業するから考え方を切り替えて、「大好きなITの力で身近な人の問題を解決するモノを創る」ことに決めたのです。

そうして日本に帰国すると、当時好きだった女の子から留学の悩み相談をされました。当時の僕は留学経験がなかったため、親しくしていた留学経験のある大学の先輩にアドバイスを乞うと、「留学生と留学の悩みを話す」ということが解決策になるという声をもらいました。

この女の子の問題を解決するには、留学生同士で自由にコミュニケーションし合えるような、「留学生限定のSNS」のようなものがあればすごく便利なんじゃないか、と当時思いつきました。

また僕自身も、もう一度シリコンバレーに行くために留学しようと考えて動いていました。そんなときに全額返済不要の留学奨学金プログラム「トビタテ!留学JAPAN日本代表プログラム」を見つけて応募したところ、見事合格できました。

これは、 400万円以上の給付型の奨学金をもらい、翌年から約2年間、シリコンバレーに留学することが決まったことを意味していました。

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トビタテ!留学JAPAN日本代表プログラムの特徴はそのコミュニティ。僕は、このコミュニティのおかげで、たくさんの留学仲間ができました。つまり、留学生という存在が、僕にとってものすごく身近な存在となりました。みんなの助けになりたい。そういう思いが強くなっていきました。

そういう自身の実感もあって、僕は「留学生限定のSNS」というアイデアを行動に移して創ろうと思いました。

もちろん世界的に需要のあるサービスなのかなんてことはわかりません。もしかしたら誰も使わないかもしれないです。しかし、僕も身近な人を想うところからはじめてみたい。そう考えたのです。

そうして、僕は、プログラミングを学びはじめることに決めました。

実際の様子はこちらにも書いています。
○○でも○○になれる時代! シリコンバレーとトビタテ留学JAPANに行くまで気づかなかった、「エリート・実家・起業」より大切なこと

6 / 人生一発逆転の必殺技「プログラミング」

当時お世話になっていた先輩に、プログラミングを学ぼうと思っているという旨を伝えると、「プログラミングを学ぶなら上京してベンチャー企業でエンジニアインターンするのがいい」とアドバイスをされました。だから、僕はそのアドバイスどおり上京してみました。

幸運とは続くもので、実は、上記のブログを読み、拡散してくださった方のおかげで、次なる挑戦の舞台である東京で家が見つかりました。

なんと、東京で「他人の家」に5ヶ月間ほど無料で滞在させていただくことができてました。 この家があったからこそ僕はプログラミング技術の習得だけに集中することができたのです。

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当時の自分は、プログラミングどころかPC操作も未経験だったこともあり、ブラインドタッチからのスタートでしたが、プログラミング学習サービスProgateなどを通じて独学を進めていくうちに、徐々に理解できるようになっていきました。

そして、またまた幸運が重なりました。Progateでエンジニアインターンをできることになり、プログラミングを教える会社でプログラミングを学ぶことになったのです(笑)。

Progateで半年間インターンしてみて

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Progateのメンバーは、みんな東大生という圧倒的高学歴でした。だから、落ちこぼれ出身の僕は、最初はみんなに馴染めるか心配で仕方なかったですが、杞憂でした。

Progateは、僕にとって最高のインターン先だったと思います。なにより当時お世話になっていたメンター(現Progate取締役・COO)は出会ってきた中でも最高のメンターでした。

彼は、僕の物分りの悪さに懲りず、プログラミングについて何度も何度も丁寧に教えてくださったからです。彼がいなければ、僕は難解だったプログラミングを早々と挫折していたと思います。また、僕の物分りの悪さに対して叱咤してくれた深澤くん(現AppBrewCEO)にも感謝しています。

そんなProgateでの半年間のインターンを通じて、僕は、「プログラミング」という一発逆転の必殺技の基本スキルを身につけることができました。そして、僕は再訪を誓ったシリコンバレーを目指し、日本を発ちました。

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実際の様子はこちらにも書いています。
文系初心者が東大理系エンジニア集団Progateで、エンジニアとしてインターンするまで気付かなかった「1人・教材・海外留学」より大切なこと

7 / 勝負で臨んだ二度目のシリコンバレー

ついに、2年前から待ちわびていた、新たな挑戦の舞台アメリカにやってきました。

しかし、お金と住まいという問題が僕を待っていました。お金は、トビタテ!留学JAPAN日本代表プログラムから潤沢な奨学金が供給されるはずだったのですが、留学計画の変更申請などが重なり、奨学金の受け取りが遅れていたからです。

さらに、シリコンバレーの家賃が死ぬほど高く、手持ちの資金では住む場所を借りることができませんでした。

そこで、僕が考えた解決策が、スタンフォード大学の寮への居候です(笑)。

僕の母校である同志社大学には、スタンフォード大学から毎年40人ほど留学生がやってきます。僕は、彼らの日本での生活をサポートするサークルに入っていたため、スタンフォード大学に友人が多くいたのです。

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僕は、奨学金を受け取るまでの約3ヶ月間、無料でスタンフォード大学の友人の寮に居候させていただき、お金と住まいの壁を乗り越えられました。

ただ、家やお金はなんとかできたものの、当初の留学の目的という観点ではブレブレでした。「留学生向けのSNSを作る」と意気込んで、留学したものの、目の前の課題に忙殺され、いつの間にかプログラミングからも遠ざかっていました。

さらに、当時の僕は周りに対して評論家のようになっていたと思います。そんな自分に自信が持てず、人前でも必要以上に卑屈になっていました。当時、親しくしていたある友人からもそういった点を間接的に指摘されたように感じたこともありました。すごくかっこ悪かったと思います。

そんな留学前半でしたが、転機となったのは、トビタテ!留学JAPAN日本代表プログラムを通してできた親友とのアリゾナ旅行だったように思います。当時落ち込んでいた自分を見兼ねてか、親友がロサンゼルスやアリゾナやラスベガスへの車旅行に誘い出してくれました。

そこで見たのがアメリカのむき出しの大自然。

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そんな大自然を見てボーッとしていると、「自分の悩みは、なんて小さいんだ。くよくよしても仕方ない。人生やりたいことがあるならやるしかない」という気持ちになれました。

前向きになった僕は、留学してから問題意識に感じていたことに対して実際に動いてみようと思いました。そうして、留学希望者と経験者のマッチングサービスをつくることに決めたのです。そこからは、サービス作りに打ち込みました。

はじめてのゼロイチのサービス開発やリーダー経験だったが故に、至らないところがたくさんありましたが、リリースまでこぎつけることができました。ちなみに、留学生にとっての最大規模のイベントであるボストンキャリアフォーラムの当日にリリースしました(笑)。

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実際にサービスをリリースをすると、いろんな良いことが起きました。

自分たちがつくったサービスを使って実際に留学をした人が出てきたり、仲間ができたり、サービスが自分のアイデンティティとなって人に覚えてもらいやすくなったこともありました。

なにより自分たちが趣味の延長で作りはじめたWebサービスが、インターネットを通じて100人、1000人へと広がっていくあの感覚にゾクゾクしました。趣味的なプロジェクトではありましたが、サービス作りの醍醐味をこのときに感じることができたんです。

たくさん失敗しましたが、かけがえのない日々でした。かっこ悪かったあの頃より少しはましになれたかな、そんな気がしました。

第三章:アメリカで出会った投資家・本田圭佑

8 /カウチサーフィンの衝撃

「アメリカでしかできないことをやろう」

留学期間も終わりにさしかかった2017年5月。
僕は、アメリカ中を車で1周する旅に出ることにしました。

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総走行距離約1万km。45日間の冒険。北はバンクーバーから南はニューオリンズまで、20の街を訪れてました。360度真っ白な砂漠「ホワイトサンド」。圧倒的な神秘と歴史に冒険心をくすぐられた「カールスバッドの鍾乳洞」。

もう一度訪れたいと思う観光名所は、たくさんありました。しかし、それ以上に、僕の心を掴んで離さなかったのは、その道中での「宿泊体験」でした。

お金のない貧乏留学生だったので、毎日の寝床を確保するために、「カウチサーフィン」を愛用しました。「カウチサーフィン」は、世界中の街で、無料で家に泊めてくれる人を探すサービス。世界中に400万人のユーザーと、無料で泊めてくれる40万人のホストがいます。

「無料版のAirbnb」といえば、分かりやすいかもしれません。

最初は「無料で泊まれるから」という安易な気持ちで使いはじめましたが、すぐさま僕はこのサービスの虜になりました。なぜなら、旅のハイライトといえる思い出は、カウチサーフィンがつないだ縁が、つくってくれたものだったからです。

セドナのアリフと一緒に見た満点の星。
オースティンのビクターに誘われたパーティーで飲んだ甘いビール。
ナッシュビルのマイクが連れっていてくれたコメディーショーでの突然の登壇。

旅から2年たった今でも、どの州で、誰のどんな家に泊まったか、そこでどんな会話をしたか、鮮明に思い出すことができます。

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サービスを使う前は、「ホストはAirbnbで家を貸し出せば、収益が得られるのに、どうしてカウチサーフィンに登録するのだろう」と、疑問に思うこともありました。

しかし、カウチサーフィンを使いはじめて、それが「とんだ誤解」であることに気づきました。

「ホテルに泊まるだけでは絶対にできない、濃密な交流ができる」
「自宅での日常が、世界の旅人を迎えるという非日常に一瞬で変わる」

それこそが、カウチサーフィンだけが持つ、圧倒的な提供価値だったのです。

アメリカのAirbnbのゲストの多くがアメリカ国内からのゲストで、その中には出張などのビジネスでの利用者もいる。

その一方で、カウチサーフィンは、国外からの旅行者がほとんどであること。この事実が、カウチサーフィンの魅力を物語っていると思います。

「いつか、これくらい人の人生にインパクトを与えられるようないい体験を提供するサービスを創る」

「Homii(ホーミー)」を生み出すきっかけにもなった、この決意。その原点は、まぎれもなく、この旅での宿泊体験でした。

9 /「本田選手、僕とサンフランシスコで会いませんか?」

カウチサーフィンのおかげで、最高の旅を満喫。意気揚々とシアトルに向う道中のことです。

突然、旅をともにしていた車が動かなくなってしまいました。全く知らない土地。原因は不明。周りに人影もないハイウェイの上で途方に暮れました。

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修理代、900ドル(約10万)。修理日数、3日以上。なんとかたどり着いた修理屋のおじさんが僕に言い渡した条件が、貧乏留学生にとっては、手厳しものでした。

しかし、転んでもタダでは起きないのが、僕が信じる「本田圭佑イズム」の真骨頂。

車のトラブルを「(車の)ケガはチャンスだ」と、とらえ直せないか。状況を打開するべく、Twitterを開いたところ、ふと、あるツイートが目にはいりました。

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「これだ!」
早速、Webのフォームからメッセージを送りました。ただし、送ったのは「質問」ではなく、企画の趣旨を無視した「唐突なお願い」でした。

「本田さんは、6月末にサンフランシスコ来ますよね? 僕はサンフランシスコの留学生なんです。よかったら、僕と会いませんか?」

エンジニアであること、留学生向けサービスの開発者であること、京都から単身サンフランシスコに乗り込んでいる意欲ある若者であること・・・

僕のステータスの中から、少しでも本田さんの目に止まるような情報を添えて、メッセージを送信しました。それから数日後。車の修復が終わり、シアトルにちょうど到着して、ホストのマイケルと夕食をしていた時のことです。Facebookに、目を疑うような連絡が届きました。

— メルマガ管理人: はじめまして、本田圭佑選手のメルマガを担当している◯◯というものです。メルマガへの問い合わせに連絡先がなかったので、Facebookにて連絡させていただきました。本田選手が洪さんに来てもらえるのであれば、ぜひ会いたいということです。

— 僕: 連絡ありがとうございます。このメッセージを見たとき、何度も目を疑い、手が震えるくらい嬉しい気持ちになりました。また、昔から「Number」を愛読していたので、◯◯さんについてもご存知でした。光栄です。いつどこに向かえばよろしいでしょうか?

— メルマガ管理人:返信ありがとうございます! 本田選手に連絡しますね。ちなみに今、サンフランシスコにいますか?「サンフランシスコ時間の明日の11:00-11:30で◯◯ホテルに来てもらえるようにお願いできますか?」とのことです!

— 僕: 今、アメリカを車で1周中でして現在はシアトルにいます。絶対に会いたいので、その日しか無理であれば今から向かいますがどうしましょう。いや、いますぐに車で向かうべきですかね。あ、いますぐに車で向かっても厳しい距離なので飛行機使います。

— 僕:早朝初のサンフランシスコ行きの飛行機を買いました。

あの時、サンフランシスコに留学していなければ・・・
あの時、車が故障していなければ・・・
あの時、Twitterを見ていなければ・・・
あの時、趣旨を無視した質問を送っていなければ・・・

まさに千載一遇の好機。いくつもの偶然が重なり、私は本田圭佑さんに会う機会を手にいれました。

集合場所に指定されたのは、サンフランシスコにある高級ホテルのロビー。ロビーで行わるビジネスMTGの合間の30分をもらって実現した「奇跡の対面」でした。

「コウさんは、なんで僕に会いたいと思ってくれたんですか?」

中学生時代からの僕のヒーローの一言目には、さすがにズッコケました。それは、僕があなたに言うべきセリフじゃないですか。

「コウさんは、学生さんなんですか?へぇー。エンジニアでもあるんですか?うん、うん」

他人行儀な世間話が10分間。このままでは終われません。

アメリカ1周で訪れた大学に貼り続けてきた「留学サービス」紹介用のポスターをリュックから取り出して、自分が作っていたサービスを全力でプレゼンしました。

「4人でやっている」と言えば、「いいですね。フェイスブックのはじまりみたいじゃないですか」と興奮する本田さん。「法人化していない」と説明すれば、「いいじゃないですか。会社でないのも、逆に」と面白がってくれました。

サービス開発者として真剣にサービスを語りだすと、さっきまで僕への関心が薄かった本田さんが一転。どんどん反応してくれるようになったのです。

「留学生を増やすのはあくまで手段。僕は世界から差別をなくしたいから、このサービスをやっているんです」

一通り、サービスに込めた想いと戦略の話した終えたところで、僕は「核心」を攻めました。

「本田さん、サンフランシスコには、投資先を探しに来られていますよね。その観点からみて、僕はどうですか」

すると、本田さんは「もっと知りたいですね」と言って、なんとLINEのIDを教えてくれました。

「LINEに事業計画書を送っといてください。そしたら、投資を検討しますから」

奇しくも、これが僕にとってはじめての投資家への事業プレゼン。僕はしっかり、次につながるゴールを決めることができました。

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10 / 「コウ、Be Crazyでいけよ!」


「お久しぶりです、コウさん。それにしても、よくメキシコまで来たなぁ。ほんと、気合い入ってますね」

サンフランシスコでの「奇跡の初対面」から1ヶ月後。僕は、メキシコのパチューカにある高級ホテルにほど近い、とあるレストランにいました。

テーブルの向かい側から、僕に話しかける本田圭佑さん。たくさんの料理と一緒に、テーブルに置かれた僕のMacbookの画面には、事業計画書のパワポが開かれていました。

なぜ、僕がメキシコにいるのか。それには理由があります。

サンフランシスコでねじ込んだプレゼンで結果を残し、投資家・本田さんから「次のチャンス」をもらった僕は、それから20日間。人生で初めて書く事業計画書を仕上げるために、寝食を忘れて、自分とサービスに向き合いました。

「世界中の留学生が使う、留学プラットフォームをつくります」

できる限り大きなビジョンを描いてつくった渾身の事業計画書。そのPDFをLINEで送った数日後、本田圭佑さん本人からの返信は思ってもいないものでした。

「メキシコに会いに来ませんか?」

当時、パチューカというクラブに移籍していた事情でメキシコにいた本田圭佑さん。僕はすぐにチケットを手配し、弾丸スケジュールでメキシコに飛びました。

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渡航前には、「来てもらっても、1時間しか会えない」と言われていました。

しかし、結果的に3日間、一緒に食事をしながら、やりたい事業、ビジネス、人生について、真剣に議論をする時間を過ごすことになりました。

ファンにとっては、最高の時間かもしれません。しかし、僕は「投資を受ける」という目的の達成するために来た起業家の卵です。

どうして留学サービスにこだわるのか
なぜ僕には、世界一の留学サービスがつくれるのか
なぜ世界から差別をなくす手段に、留学サービスを選んだのか

頭をフル回転させながら、これまでの原体験とこれからの戦略を、とにかく語り続けました。

会話が途切れて僕が考え込むたびに「コウさん、もっと楽しませてくださいよ」と、畳み掛けてくる本田さん。会っている間は、全く油断ができません。

そして、別れ際には必ず、次の日までの課題が出されました。

「今の事業計画より、クレイジーなアイデアを考えてきてください」
「留学マッチングサービスとして、ボスキャリを倒す戦略を考えてきてください」

課題へのプレッシャーからか、全く寝付けない毎日でした。5時まで起きていて、少し仮眠をとったあとに起床。日中は「15分後に、ご飯はどうですか」という突然の電話に備えながら、ホテルの部屋で、ひたすら課題に対する、よりよい答えを考え続けました。

正直、毎日の議論に、手応えはなし。ただ、常にベストは尽くすことだけに、集中していました。

そうして迎えた本田さんと過ごすメキシコ3日目の夜。終わりは突然やってきました。

「分かりました。僕はコウさんに投資をします」

夕食中に、確かにそう告げられたのです。

「コウさんは会うたびに、成長してますね。はじめて会ったサンフランシスコより、再会したメキシコ。メキシコの1日目より2日目。そして、2日目より今。 確実に、成長しているから面白いんです」

投資をもらえることも、もちろんとても嬉しかったです。しかし、それ以上に「会うたびに、成長している」という評価が、僕にとっては、何物にも代え難いプレゼントでした。

自分を追い込んだ後、その状況に適応して成長すること。それは「環境適応型人間」を自認する本田さんのサッカー人生をみて、盗んだスタイルだったからです。

移籍前に、「ACミランの10番」の実力がなくたっていい。10番をつけてプレーをすれば、「ACミランの10番」に、ふさわしいプレーができるプレイヤーに成長できる。

一見、暴論にもみえる「持論」を、結果を出すことで証明してみせた本田さん。まだ法人登記をしていないサービス開発者に過ぎなかった自分も、起業家という次のステージに進めば、もっと進化できるに違いない。そんな自信をつけさせてくれる嬉しい評価でした。

「でっかいプロジェクトにしていきましょう。応援します。あと、コウさんって呼び方、なんかよそよそしいから、これからはコウでいいですか」

年下の僕に対して、フランクに接しながらも、ずっと敬語だった本田さんからの提案。もちろん僕の答えは、YESです。僕もそれから「本田さん」ではなく、「圭佑さん」と呼ぶことにしました。

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ディナーをしたレストランを出て、車まで2人で歩いていく途中、ようやく3日間の緊張から開放された僕は、「投資をもらえる」という結果を出せた喜びで、天にも昇る心地でした。

僕の心のゆるみが伝わったのか。車に乗る時に、こんな言葉をかけれられたのを今でもよく覚えています。

「コウ、Be Crazyでいけよ!」

それは「僕の投資家・圭佑さん」からもらった、最初のアドバイスでした。 

第四章:自分史上最高難易度の挑戦・起業

11 / なにもうまくいかなくて吐きそうだった1年間。

メキシコから帰国後、法人登記をして正式に起業をしました。

当時、現在ほどは活発に出資活動をしていなかった圭佑さん。会社にまだ誰も外部の投資家がいないタイミングで投資をする「ファースト・インベスター」としての出資は、僕の会社がはじめてでした。

「僕の会社を、圭佑さんが初期に投資した会社の中で最も成功した会社にすることで、受験のときに救われた恩は、事業と共に10年越しで恩返したい

そう心に誓って、会社をはじました。しかし、会社を始めて1年。会社の代表としての意思決定は失敗だらけ。最も大きな失敗は、誰も使わないサービスを3ヶ月もかけて作り直していたことでした。

はじめに自社サービスとしてやっていた事業は、留学時代に趣味でやっていた留学相談サービスを事業化したものでした。趣味としてはよかったんですが… ビジネスとしては、

・供給側のユーザーのインセンティブがほとんどない
→留学経験者がサービスを使う必然性がない

・需要側のペインがそれほど強くはない(代替手段が多い)
→ネットの情報、留学経験者の知り合い、留学エージェントなどと比較したときに、圧倒的に上回れるサービスではない。

・留学を決めるのに時間がかかりすぎる
→留学が成約してはじめて収益が出るのに、留学の特性上、留学を決めるまでの時間がとても長い(3ヶ月〜半年以上)

など、事業としての課題が多々あり散々でした。また、戦略と呼べる戦略もありませんでした。それにも関わらず、僕はエンジニアの立場から長期的な視点に立って、技術的負債を回収することを優先してしまいました。

趣味時代に開発していたソースコードをフルスクラッチで3ヶ月間かけて書き直す、というマイナスな意思決定をしてしまったんです。

「価値仮説を検証することではなく、より良いソースコードを書くこと」が目標になっていました。その上、ベータ版をテストユーザーに使ってもらうと反応がよくありませんでした。

3ヶ月後、僕たちは、誰も使わないサービスを3ヶ月間かけてつくりなおしていたことにようやく気づきました。

このときに、実装を担当した三城には、自分の実力不足故に、本当に申し訳ないことをしたと思っています。まさに、早すぎる最適化でした。

心の中では、既に自分のプロダクトを信じられなくなっていましたが、当時は、まさか自分たちが3ヶ月間かけて作り直したのに、事業を変えるなんて…、というくだらないサンクコストがあり、事業が構造的に厳しい現実を直視できずにいました。

まだ何か打ち手があるのではないかという気持ちもあり、意思決定を先延ばしにしていました。

そうした意思決定の失敗にくよくよ悔やんでいた自分に対して、圭佑さんは「全力で考えてAとBのどっちかが正解でどっちかが不正解で、不正解を選んで失敗して、何でAを選ばんかったんやっていうのおかしくない? 次に活かすための反省以外に時間を使うな。あとピボットを恐れるな」と叱咤激励し続けてくれました。

W杯前に彼が日本に帰国したときも、多忙の中、オフィス兼シェアハウス兼民泊(Aribnb)をしていた僕たちのオフィスに遊びに来てくださいました。きっと彼からの激励だったのだと思います。

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それでも、起業はやっぱり難しくて、なかなか前に進まないし、いろんな困難もあって、キャッシュアウト寸前を経験してるうちに、毎日が辛くなって、プレッシャーや自責の念も感じて吐きそうになった時期もありました。

起業は、今までと考え方やマインドを完全に変える必要があります。このときは、まだ起業慣れできていなかったのだと思います。間違いなく、起業は、自分史上最高難易度の挑戦です。

そんな中、僕を支え続けてくれたのは、圭佑さんの言葉でした。

圭佑さんに相談すると、「終わったことはもう仕方ない。意思決定というのも毎日変わるもの。失敗は誠実に反省して次に活かせばいい」と起業家の立場にたって温かく励ましてくださいました。そんな圭佑さんの言葉に、僕は何度も何度も支えられました。

Yコンビネーターが、コラムで「最高の投資家とは、あなたとあなたのビジネスに対して、無限の可能性を信じているような人だ」と言及していますが、圭佑さんは僕にとってまさにそんな投資家です。

なんだろう、ミーティングした後に、「前向きになって頑張ろう!」って自然と思えるんです。「この人が味方にいると負ける気がしなくなる」そんな気持ちにさせてくれるんです。僕は、その度に、「自分も会社の代表としてそうありたい」と気が引き締まりました。

事業がうまくいかないという致命的な課題はありましたが、圭佑さんが株主としていてくださったおかげで、起業してから1年は僕たちの会社は、死なずに生き続けられたのだと思います。

と同時に、この一番きつかった時期に新たな投資を決めてくださった野口さん、黒越さん、島田さんにも本当に感謝しています。

12 / 突然の「辞めたい」

「前に進んでいない。時間を大切にしたい。会社を辞めようと思っている」

それは、今年結婚した仲間からの一言でした。

留学事業からのピボットを決意してから1ヶ月。チームで次の事業を考えては、「やめとこう」と結論づけるだけの日々でした。会社の存在意義である「事業」、心から信じられる「プロダクト」の不在には、形容し難い苦しさがあります。

「洪さんの会社って、今どんな事業をやられているのですか」

そう聞かれても、恥ずかしくて、近況を話したくない。情けなさから「経営者失格なのではないか」と、自責の念にかられていた時期に、仲間からふいに告げられたのが、冒頭の一言です。

どんな事業を僕たちはやるべきなのか。
信じられるプロダクトは、どうやったら生まれるのか。

「答えの出せない問題」で頭の中が埋め尽くされているとき、Progate代表の加藤さんと温泉に行く機会がありました。温かい温泉に一緒に浸かっていると、彼はボソッとこう言いました。

「Progateがこの1年で何倍にも伸びたのは、俺らが頑張ったからじゃなくて、プログラミング教育の義務教育化もあって、プログラミング市場が伸びたからなんだよね」

僕は知っています。Progateほど、プロダクトに愚直に向き合っている会社はないことを。だからこそ、加藤さんが「自分たちの力だけではなく、事業のタイミングによることが大きい」と言ったことに、驚きました。

これは、巷でよくある「市場規模が大切だ」というアドバイスとは次元が違います。

「今は、この事業に参入するべきタイミングか」
「この事業に、腹落ちをしているか」

この2つの問いに、力強くYESと答えられる経営者だけが、事業を成長させられる。僕は加藤さんの言葉を、自分なりに解釈してみると、頭の中をスッキリと整理することができたのです。

料理動画のクラシルとDELISH KITCHEN。
キュレーションアプリのグノシーとSmartNews。
プログラミング教育のProgateとLife is Tech。

競合にみえる企業がいても、市場の拡大と同時に、どの企業も伸びてきた事例は、枚挙に暇がありません。それは、見極めた事業の立ち上げが、最高のタイミングだったからではないか。

また、もうひとつの大切な要素。それは事業に腹落ちしているか。事業への腹落ちは、絶好のタイミングで参入した後の「熱源」になるからです。

自分、家族、友人が欲しいものをつくっている。
自分、家族、友人が抱えていた問題を解決してる。

明確な意義を見い出せてさえいれば、熱量を持って、事業に打ち込みやすい。困難に直面しても、心が折れずに前に進めます。

熱量の高さから生まれるのは「深い思考」と「圧倒的な行動量」。それこそが、他社が一朝一夕では真似できない財産であり、最大の競争優位性となるのです。

Progateの加藤さんは、タイミングに加えて、まさしく「事業への腹落ち」で、プロダクトを成長させた起業家。あれほど愚直にプロダクトに向き合えるのは、「プログラミングで、人生が変わった」という強い原体験が熱源となっているからです。

「ビジネスから、まだない文化を生み出すために、事業のタイミングと腹落ちを追求する」

それが、不安でたまらない日々の末に、僕がたどり着いた「答え」でした。

13 / Homiiが「他人の家に住む」を文化にする

「新しい住む場所を手に入れる」
「縁のなかった人たちと交流をする」

突き詰めて考えると、僕の人生が一歩前に進む時、この2つの行動が、挑戦するための”足場”をつくってくれていました。

今度は、僕が「住む場所」と「交流」の届け方を変えることで、世界中の人々の人生を変えよう。

そう決心がついた時に、天から降りてきたように思いついたのが僕たちの新しい事業「Homii(ホーミー)」です。

事業の起点となったのは、日本にやってきた外国人が必ず突き当たる「住む場所の問題」。

日本語のみの物件情報、外国人であることが理由での審査落ち、外国人でも入居可能な物件の割高な家賃、煩雑な賃貸契約の作業・・・

多くの外国人が、日常生活を送る上で欠かせない「住む場所」の確保に悩みを抱えている現実に着目しました。

「ホームステイがあるじゃないか」

外国人が、日本で安心して長期間滞在する方法を考えていた時に、すぐに思い出したのは、留学ではお馴染みの滞在スタイルでした。

敷金礼金不要で、月単位の契約も可能。おまけに、家具家電の購入も不要。通常の賃貸と比べ、ホームステイは、入居する外国人の負担が小さいことが大きな特徴です。

一方、外国人を受け入れるホストが、ホームステイをやる理由は何か。

部屋が余っているなら、短期滞在者向けに部屋を貸す「民泊」をやってもいいはず。しかし、民泊の運営には「独自の辛さ」があることを僕たちは実体験から知っていました。

実は、起業当初、資金節約のため、東京都台東区入谷で、オフィス兼シェアハウス兼民泊(Airbnb)を8ヶ月間営んでいました。さまざまな国からのゲストとの触れ合いが楽しい期間を過ぎると、待っているのは疲弊の日々。

短期で入れ替わる滞在者への対応には、相応の手間がかかり、最低限のコミュニケーションをとるだけで精一杯に。笑顔で帰っていたはずのゲストたちに、マイナスレビューを書かれるのも、傷つくものです。

ホームステイの場合はどうか。在住者のような長期滞在者を対象とするなら、ホストは手続きや清掃といった手間は不要。滞在期間が長ければ、必然的にコミュニケーションの機会も増える。

友人や家族のような関係になれる楽しみは、十分にあります。

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ホームステイの持つ利点をそのままに、より魅力的に、現代的なアップデートしよう。そんな意気込みから生まれたのが、「Homii(ホーミー)」です。

「Homii(ホーミー)」は、下宿文化をアップデートする新しいホームステイです。住む場所を探しているゲストは、Homiiのサイト上で自宅の空き部屋を提供しているホストとのマッチングが成立すれば、ホストの自宅に最短1ヶ月間から住むことができるサービスです。

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入管法改正案の施行。民泊新法による民泊への規制。東京五輪目前での移住外国人の急増。

世の中の流れをみても、外国人の「住む場所」の問題を解決をする事業をやるなら、今しかないという絶好のタイミングです。

Airbnbが風穴をあけたことで、今では「他人の家に泊まること」「他人に家を貸すこと」ことは、ひとつの「文化」として、世の中に受け入られました。

次は、「他人の家に住むこと」「他人を家に住まわせること」が文化になる。そんな確信のもとに、「Homii(ホーミー)」を満を持してローンチすることにしました。

外国人のゲストと日本人のホストに限定して、サービスを開始したHomiiですが、今年中に、国籍を問わず、あらゆる人が「混ざって暮らす」ことを実現するサービスへと進化させていきます。

つまり、日本人のゲストが日本人ホストや外国人ホストのおうちに入居することが可能になります。私も今では、「他人の家」に住んでいます。


14/ 「混ぜる暮らしで、世界をもっと豊かになる」

Airbnbが「他人の家に泊まる」サービスなら、Homiiは「他人の家に住み、一緒に暮らす」サービスです。

Homiiを利用して、同じ屋根の下で暮らすのは、地縁も、血縁もない全くの赤の他人同士。国籍はもちろんのこと、年齢にも、職業にも全く共通点はないかもしれません。

そんな人たちの人生を、暮らしを通して、混ぜ合わせにいくことが、Homiiの狙いです。

「混ぜる暮らしで、世界はもっと豊かになる」

そう信じる僕たちは、Homiiの利用期間を最低1ヶ月に設定しました。理由はひとつ。ただ出会うだけ、少しの間泊まるだけなんて、もったいないと思っているからです。

コンピューターサイエンスの博士課程の留学生と、プログラミングに興味を持ちはじめた中学生がいる家族。
将来ワイナリーを経営したいと思っている外国人と、長野のワイン産地に暮らす老夫婦。
伝統工芸を愛する留学生と金沢の13代目漆器職人。

Homiiでは、短期滞在では味わえない「一緒に暮らす」からこその濃密な体験を届けることに、徹底的にこだわっていきます。

人間は、良くも悪くも、自分のおかれた環境の影響を受けやすいものです。

僕はこの10年で「密度の高いコミュニケーションを長時間続けれれば、人は必ず変れる」と、確信しました。

・シリコンバレーで、3週間、ITの先端をいく人たちに毎日会い続けたこと。
・東京で、日夜東大生エンジニアに囲まれながら、ゼロからプログラミングを学んだこと。
・スタンフォードの寮で、毎週朝まで人狼ゲームに興じて英語を体得したこと。

縁のない場所に飛び込み、濃密な交流を繰り返すことで、前に進んできました。だからこそ、断言できます。

人生を変えるようなコミュニケーションを最も手っ取り早く手段。それは、「全く縁のない誰かと、一緒に暮らす」ことなんです。

地域の過疎化、少子高齢化で増加する独居老人、増え続ける空き家、職人の継承人不在。日本が直面する社会問題に、反グローバリズム、地域住民との共生という世界が直面する社会問題に、「混ぜる暮らし(ホームシェアリング)」という切り口からアプローチしていきます。

例えば、大学進学で上京した日本の学生が、寮やアパートではなく、独り暮らしのおじいちゃんのお家で暮らしはじめることができれば、そこにコミュニケーションが生まれ、おじいちゃんの孤独が軽減されるかもしれません。血がつながっていなくても、それを新しい家族と呼べるような未来が来てもいいはずです。

また、例えば日本の伝統工芸に興味がある人が、従来のホームステイだけではなく、職人さんの自宅で暮らすことができても面白いでしょう。

「混ぜる暮らしで、世界はもっと豊かになる」

このミッションの実現に、次の10年を賭けます。これが私の次の制約と誓約です。

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終章:それをやるのはこのチームだ

心の底から信じられる事業を思いついた2日後。結婚を機に「会社を辞めたい」といっていた仲間を誘い、2人で焼き鳥屋に飲みに出かけ、Homiiの事業構想を伝えました。すると、

「コウくんのこの2週間の成長は、ほんと凄まじい。辞めるっていたけど、考え直してみるよ」

テーブル越しに、仲間からかけてもらったこの言葉を、僕は忘れないと思います。

彼はその1週間後、会社に残って仕事をする決意をしてくれました。2018年12月末、僕たちはこうして新たな事業を見つけ、チームとして再始動をすることができました。

今、この文章に世に出すには理由があります。それは僕たちが、心から底から信じられる事業がHomiiであり、チームの決意の固さを信じているからです。

この3万字は、僕たちの決意表明です。

近い未来、「他人の家に住む」「他人を家に住ませる」ことが文化となるなら、その未来を実現するのは、僕たちのチームであると思っています。

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行動力や環境適応能力に強みのある僕、過去に起業経験がありビジネス・数字に強い西原。技術力に強みがある三城とアメリカ人エンジニアのMarcus。

全員がシェアリング志向のミレニアル世代にして、エンジニアリングと海外での長期滞在の経験者。

起業初期には、オフィス兼シェアハウス兼民泊(Airbnb)の住居で「ホームシェアリング」の実体験もあり。ホームシェアリングが持つ可能性と弱点を肌感覚で理解できていることが強みです。

そして、私とMarcusは、場所と立場を越えて、交流を続けてきた稀有な関係。エンジニアのMarcusにとって、僕はスタンフォード大学在学中に留学した同志社大学の友人。ホームステイ先の京都でいつでも気軽に遊べる仲間。

僕にとってのMarcusは、シリコンバレーに留学していた時に、スタンフォード大学寮の居候をさせてくれた部屋主。そして、プログラミングの良き師匠でもあります。

今気づけば、2人は一緒に会社をやる仲間になっていました。そうやって人生の苦楽を共にするのような関係性も、Homiiから生み出せていければ、いいと思っています。

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また、偶然にも、Airbnbのチームの構成や立ち上げ方は、僕たちと似ています。環境適応能力が強みのブライアン・チェスキー、昔からビジネス感覚があったジョー・ゲビアと天才エンジニアのネイサン。

彼らは「他人の家に泊まること」を当たり前にしました。次に「他人の家に住むこと」を文化にすることのは、誰でしょうか。

それはもちろん、僕たちのチームです。

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次の10年で証明したいこと

僕は、この10年を通して、「自分の人生は自分の手で切り開いていける」ということ証明することができたと思っています。もし、10年前の自分に会えるなら、中学から今までの10年で学んだことを声を大にして伝えてあげたいです。

「周りを恐れるな、自分を持って強く生きよう。自分を貫けば、批判されることもあるかもしれない。でも、自分らしさをしっかりと持って生きれば、いつか最高の仲間に出会うことができる。だから、批判を恐れず自分を貫き続けろ」と。

そして、これで終わりではありませんし、決して満足もしてません。次の10年は、前回とは全く違う10年にしたいと思っています。

次の10年では、「自分だけでなく自分たちを信じる。そうすれば、自分の人生だけでなく、世界すら変えられる」ということを仲間と一緒に証明する、そんな10年にできればと思っています。

次回に続く。

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ありがとうございました

3万字もある長文を読んでくださり、本当にありがとうございました。
また、当記事の下書きをリライトしてくださったMizuki Suzueさん、Shu Uesugiさん、本当にありがとうございました。

また、この1年間で、会社の仲間や切磋琢磨できる起業家仲間ができました。MAKERS UNIVERSITYにもお世話になりました。起業のメンターとして古俣さんにもすごくお世話になりました。応援してくれる人も増えました。

野口さんや黒越さんという新しい株主にも恵まれました。ちなみにこのタイミングで、少額ではありますが、Progateの創業者3人にも出資していただきました。僕はプログラミングに関して、彼らに0から面倒を見てもらって、たくさんのことを教えてもらい、育ててもらった恩があるからです。起業にとって大切なことを、みんなからたくさん学ばさせていただきました。

最後に、起業前から起業してうまくいってないときも近くで応援してくれたある友人にもとても感謝しています。この場を借りて、お世話になった数えきれないみなさんに感謝させていただきたいです。

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