背筋を正して。

お腹が、聞いたことない音を鳴らしている。

日曜日の夜から、ノロウィルスにかかった。発症して3日、なかなか症状がやまず、僕のお腹は鳴り続けている。低音も高音も鳴りまくっていて、もうフェス状態だ。つまり、腸内フェス2016。こんなアホらしいことを書いてる今も、鳴っている。

診察を受けた月曜日の夜、気力がない僕が読んだのは、日曜日に読もうと鞄に入れっぱなしになっていた、遠藤周作の『わたしが・棄てた・女』。僕は、講談社文庫版のこのあらすじに、心を惹かれて読もうと思った。

2度目のデイトの時、裏通りの連込旅館で体を奪われたミツは、その後その青年に誘われることもなかった。青年が他の女性に熱を上げ、いよいよ結婚が近づいた頃、ミツの体に変調が起こった。癩の症状である。……冷酷な運命に弄ばれながらも、崇高な愛に生きる無知な田舎娘の短い生涯を、斬新な手法で描く。

読み終えた後、この作品ともっと早く出会っていれば、と思った。そんな風に思う作品は、珍しい。物語のせつなさは、病で参っていた僕にとって、かなり心苦しいものだった。

でも、なにより、自分自身と「ぼくの手記」の書き手である青年・吉岡を重ね合わせてしまい、自分の人生に後悔すべきところが、たくさんあるのではないか、という気がしてきたのが、一番心苦しかった。読んでいて僕も吉岡と同じように、「分かっていなかった」と思った箇所が、ここだ。

「しかし、ぼくは知らなかったのだ。ぼくたちの人生では、他人にたいするどんな行為でも、太陽の下で氷が溶けるように、消えるのではないことを。ぼくたちがその相手から遠ざかり、全く思いださないようになっても、ぼくらの行為は、心のふかい奥底に痕跡をのこさずには消えないことを知らなかったのだ。」

過去に他人に働きかけた行為は、消えない。
善いことも悪いことも、それぞれ直接返ってこずとも、後から思ってもみない形で返ってくることがある。作中で、ミツが出会った人たちに残していた痕跡が、吉岡を最終的には引き寄せたように。
思わぬところで、人の縁は繋がっていく。誰かに善を働いたら誰かに伝わり、誰かに悪を働いたら誰かに伝わる。

吉岡が言っていた「誰だって男ならすることだから」という、ミツを抱いて捨てたことへの言い訳にも、胸がちくっと痛んだ。そういう風に考えたことは、確かに僕にもある。誰だってしてることをするのと、誰だってしてることで誰かが報われない思いになるのは、別だった。誰だってしてるから許されるわけじゃない。

自分が幸せになろうとするときに、誰かの寂しさに目を瞑るような生き方はしたくないな、と生き方の背筋が正される作品だった。ああ、なるべく善いことが多く返ってくるように、生きよう…。

このタイミングで読めて良かった。ノロウィルスも、ゆっくりこれを読むためなのでは、と思う程に、積ん読にしていてはいけない作品だったし、また数年後に、読み返したくなる作品。

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いい波乗ってんね〜〜〜〜〜!
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