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【エッセイ】「これ以上の豊かさはいらない」の裏にあるもの: 「縦の旅行」と「横の旅行」を怠ったままの「意識高い系」

はじめに

先日、ABEMAプライムにゲストとして出演してきました。

メディアや学生団体といった、いわゆる「意識高い系」界隈の議論で取り残され、ともすれば見捨てられている人たちがいるように思えてなりませんでした。それに、ジェンダー・ギャップ以外の格差や差別に苦しむ人たちもいます。また、ジェンダー平等や気候変動対策は数ある政策の一つ。「こっちの政策を優先してくれ」と切実な声にも耳を傾ける必要があります。そういう想いでの、番組出演でした。

番組の冒頭で取り上げられたのは米山隆一 衆議院議員(元新潟県知事)のツイート。ジェンダー平等や気候変動対策を真っ先に打ち出した政策論議は「余裕のある人たちの趣味」に見られてしまう、との論旨だと理解しています。

このツイートと、COP26(第26回 気候変動枠組条約締約国会議)に合わせた日本の若者たちによる石炭火力発電の廃止要求での「これ以上の豊かさはいらない」との発言について考えていきたいと思います。

1. 「余裕のない人たちのニーズ」が優先だ

先ほどのツイートにおいて、米山さんは「ジェンダー平等や気候変動対策は余裕のある人たちの趣味に思われてしまう」と仰せでした。よって、その前に「経済」と「福祉」を提示せよ、とのことです。

例えばジェンダー・ギャップにおいて現在進行形で切実に苦しめられている人たちもいますから「趣味」とは言い切れないような気もしますが、正直、その主旨には同感です。率直に、誤解を恐れずに言えば、ジェンダー平等や気候変動対策で「腹は膨れない」し、別の切実な課題に直面している人たちにとっては相対的に重要性が低いのです。この構図は防衛・安全保障や外交・国際政治を重視する私のような人たちも、また同様だと感じています。

ただし、それはジェンダー平等や気候変動対策の重要性を否定するものではないことも申し添えておかなければなりません。また、生命や尊厳に直結するような急迫性・緊急性の高い差別は最優先で取り組まれなければなりません。

こういう話をすると、「女性の貧困」とか「その困窮の根幹にあるのはジェンダー・ギャップだ」「格差も気候変動も行き過ぎた資本主義の弊害で同根だ」と反論されるかもしれません。おそらく、その指摘は(ある程度)正しいはずです。

しかし、重大なポイントを見落としています。それは「これら本質的な解決策が持つ遅効性」です。つまり、格差・貧困に苦しんでいたり、学費や税金の負担に直面したりしている人たちに「性別・ジェンダーに基づく差別をやめよう」「気候変動を止めよう」と言ったところで、彼らが苦しみから解放されるわけでも、負担が軽減されるわけでもありません。確かにジェンダー・ギャップが遠因になっている貧困・格差もあるだろうし、行き過ぎた資本主義の改善は気候変動や貧困・格差の解消に繋がるかもしれません。しかし、それって何年後でしょうか。今月の生活で悩んでいる人に、数年・数十年後の社会や地球環境を説いても届きません。当然です。だから、選択的夫婦別姓・同性婚や気候変動対策よりも、まずは現金給付とか住居確保(家賃補助)を先行するべき、となります。

また、もちろんジェンダー平等や気候変動対策とは関係ない社会問題も多く存在します。例えば「男性の貧困」「弱者男性」。貧困や格差の原因はジェンダーに由来するものだけではありませんから、ジェンダー平等の実現に向けた政策はどんなに時間が掛かっても、関係ない問題の解決には繋がりません。気候変動対策も同様で、例えば新型コロナウイルス感染症(COVID-19)流行拡大で失業した人たちの救済や保護に、気候変動対策は貢献しません。これらの課題に直面している人たちにジェンダー平等や気候変動対策を訴えても、反感を買うだけです。こういった課題にジェンダー平等や気候変動対策は当然「処方箋」になり得ませんから、経済成長による雇用拡大や所得増加、もしくは生活保護をはじめ社会保障といったターゲットの広い(性別・ジェンダーをはじめ特定の属性に限らない)施策を講じる必要があります。

とはいえ、もちろんジェンダー平等や気候変動対策の重要性が薄れるわけではありませんから、政策としては同時並行で進めるべきです。有権者にとって優先順位が劣後するからといって、国家や政府としてやらなくて良いわけではありません。そこは誤解があってはいけませんから、予め申し添えておきます。

したがって、そういう意味で、ジェンダー平等や気候変動対策は選挙対策で「余裕のある人たちの趣味」に思われかねない、との指摘は正しい。お金がなければ考えられないという意味で「余裕のある」思考だし、数年・数十年単位で考えられる精神的余裕がないと取り組めません。非常に現実味のある指摘です。それよりも「余裕のない人たちのニーズ」を向いた、地に足の付いた政策こそ、いま余裕のない有権者からは求められるし、そのニーズを丁寧に拾っていく作業も必要です。

なお、前回のエッセイでも、ハフポスト(旧称: ザ・ハフィントン・ポスト)日本版とNO YOUTH NO JAPANの実施した合同アンケートにおいて「特に積極的に取り組んでほしい社会課題」としてU30世代では「ジェンダー平等(選択的夫婦別姓など)」がトップになった結果について論じました。本稿でも根底にある問題意識は同様です。

2. 気候変動対策のためなら「これ以上の豊かさはいらない」のか?

ここまでは前回のエッセイと近似します。というか前回の「二番煎じ」の域を出ません。本題はここからです。石炭火力発電の早期廃止を求める「これ以上の豊かさはいらない」との発言について考えていきたいと思います。

先ほど述べたとおり「いまジェンダー平等や気候変動対策に目を向けられている時点で生活には概ね困っていない」「いま豊かでない人はジェンダー平等や気候変動対策に目を向ける余裕がない」社会構造があるなかで、おそらく発言者も例に漏れないでしょう。

しかし、貧富で電力消費や電気料金が大きく変わるわけではありません。貧しくても生活のため家電製品は使うし、むしろお金があると環境性能に優れた高級家電を手に入れやすい(もはや「電気料金で家計が苦しいなら、高級家電を買って電力消費を抑えれば良いじゃない」構図)でしょう。つまり、電気代は貧しい家庭ほど家計に占める負担が大きいことになります。そして、発電効率の低い再生エネルギーの導入で経済性が落ちる(電気代が上がる)ことは自明です。

したがって、自分たちの「豊かさ」の対岸にある誰かの「貧しさ」への想像や理解を欠いたのが、エネルギー発電効率が高い石炭火力発電の廃止要求における「これ以上の豊かさはいらない」という文言でしょう。

また、先日、Twitterで10代ながら家計のために汗を流す少女の様子が流れてきました。こういった人たちの姿を念頭に置くと、私は「これ以上の豊かさはいらない」と口が裂けても言えません。この家庭には「貧しさ」からの脱却が必要だし、それを可能にするのは唯一「豊かさ」に他なりません。

なお、強いられなくても良い苦労を「偉い」と美談にする記事には強い違和感を禁じ得ない(過酷な境遇を拒否したら「偉くない」のでしょうか)し、我慢を強いる口実に「もっと辛い人がいる」を利用してはならないことは申し添えておきます。

さらに、再生エネルギーの導入は「発電設備のための開発」と隣り合わせです。山林を切り開いてダムやソーラーパネルを造り、洋上に風車を建て……と、発電設備の設置にはある程度の開発や自然破壊が必然的に伴います。つまり、山林であれば農業や漁業、洋上なら漁業や海運、他にも観光や輸送・鉄道といった事業者の生活と隣り合わせです。こういった業界で従事する人たちの立場に鑑みない議論は彼らを「豊かさ」との反対――つまり、「貧しさ」に追い込むも当然です。だから「これ以上の豊かさはいらない」とは言うものの、実際は「これ以上の貧しさを作り出す」ことになりかねません。

しかも、電力供給を鑑みる以上は「安定性が繋ぐ命」も考えなければなりません。例えば何らかの理由で電力供給が絶たれたら、空調や情報通信も止まります。真夏や真冬で空調が止まれば人が死んでしまうし、警察・救急・消防や医療機関との情報通信が紡ぐ命もあります。それに、例えば病院の生命維持装置や透析装置だって、予備電源には限りがあります。このリスクは平成30年(2018年)北海道胆振東部地震に伴う「ブラックアウト」で顕在化しました。つまり、「電力安定供給の先にあるのは人命」なのです。というか、これは電力消費に限った話ではなく、経済成長や技術革新の全般に適用できます。先進国と発展途上国を比べれば明らかなように、経済成長や技術革新は生活や医療の水準を向上させ、インフラの安全性や安定性に繋がっています。その結果として守られている人命が決して少なくないことは、誰の目にも明らかでしょう。

3. いまこそ「縦の旅行」と「横の旅行」が必要だ

これらの現状がありながら、石炭火力発電の廃止要求のために「これ以上の豊かさはいらない」と言える背景には日本社会が抱えてしまった「分断」の存在を考える必要があります。

電気料金の負担に苦しむ家庭への理解や、ダムに沈みかねない・土砂崩れで容易に壊されかねない山村への想像の欠如。所得・資産(裕福-貧困)や地域(都市-地方)といった対立軸における「対岸」との交流が不足した結果として「都市部の恵まれた若者」の視点に閉じこもり、自分とは異なる境遇や属性の人たちのことを考えられなくなっていると、指摘できます。意識は高くとも、残念ながら「視座は高くない」「視野は広くない」。

ここで、カズオ・イシグロさんが指摘した「縦の旅行」と「横の旅行」の必要性を改めて考えなければなりません。

一般に「旅行」と言えば「横の旅行」でしょう。東京からロンドンへ、大阪からニューヨークへ。地図の上を、文字通り「横」に移動しています。山間に佇む村や漁業に勤しむ人たちの姿を見るためには、東京から「横の旅行」が必要です。

同時に、視野を広げるためには「縦の旅行」もしなければなりません。地図上で位置を大きく移動することはないものの、異なる階層や立場の人たちとの交流はピラミッドやヒエラルキーを「縦」に移動することです。学費や税金の負担に苦しんでいたり、勉学よりも労働を優先せざるを得なかったりする人たちの境遇に触れる(もしくは逆に富裕層の生活や世界を覗く)ためには「縦の旅行」を重ねなければなりません。

物理的にも階層的にも「自分とは違う世界」があることを知り、ともすれば感情的に目を背けがちな「対岸」に時として足を踏み入れる必要があると感じます。主張や視点、属性の違う人たちを「別の世界の人たちだから」と思考から取り残したり見捨てたりしていれば、その分断は深まるだけです。もちろん、それは「都市部の恵まれた若者」とは異なる視点や対になる属性の人たちにも言えることです。お互いに耳を傾けなければならないはずです。そのために「縦の旅行」と「横の旅行」が必要なのです。

おわりに

あたかも気候変動対策に声を挙げる若者を真っ向から否定するかのようなエッセイになってしまいました。しかし、誤解を防ぐために再び申し上げると、気候変動対策も、またジェンダー平等も重要な政策です。気候変動対策は安全保障や人権とも密接に関係する内容として捉えられ始めているし、性別・ジェンダーを理由に多くの人たち(主に女性、時として男性も)が虐げられてきた歴史も忘れてはなりません。

「これ以上の豊かさはいらない」との文言はジェンダー平等や気候変動対策といった「意識が高い」議論を活発に参加できる人たちと、これらの議論で取り残され、ともすれば見捨てられている人たちの間にある「分断」を皮肉にも浮き彫りにしてしまったと感じています。

生まれたときから豊かでジェンダー平等や気候変動対策といった中長期的・構造的な課題を考えられたり、「これ以上は豊かにならなくても良いや」と述べたりできる余裕のある「持てる者」と、その余裕を何らかの理由で手にできなかった・失ってしまった「持たざる者」。この「持てる者」と「持たざる者」の間に横たわる「分断」。対岸の存在を意識できないほどに広く、安易に対岸へと渡れないほど深い。

その分断を乗り越えるために必要なのが「縦の旅行」「横の旅行」。既に「持つ者」なら、その2つの旅行に必要なコストは「持たざる者」よりは支払いやすいでしょう。だから、「持つ者」こそ積極的に「縦の旅行」と「横の旅行」を重ねる責務(ある意味でのノブレス・オブリージュ)があると感じます。それに、意識を高く持つ余裕がある(往々にして勉強ができる、知的能力も高い)なら、視座を高め、視野を広げることも決して難しくないはず。故に、意識が高いならその努力を怠ってはなりません。「持つ者」「意識高い系」こそ、その分断を乗り越え、ともすれば漸進的にでも埋めていく努力をしなければならないと確信しています。

最後に付言すると、だからこそ、誤解を恐れずに言えば、私は「これ以上の豊かさはいらない」と声を挙げた人たちに、期待しています。「豊かさはいらない」と言える立場だからこそ「縦の旅行」「横の旅行」と視座を高める・視野を広げる努力を重ね、「分断の対岸」も巻き込める議論を進めていって欲しいと、節に願います。


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